【阪神】「吉田派」と「村山派」吉田義男さんは退団勧告など翻弄 実際の対立はグラウンド内だけ
<吉田義男さんメモリーズ12>
「今牛若丸」の異名を取った阪神の名遊撃手で、監督として1985年(昭60)に球団初の日本一を達成した吉田義男(よしだ・よしお)さんが2月3日、91歳の生涯を閉じました。日刊スポーツは吉田さんを悼み、00年の日刊スポーツ客員評論家就任以前から30年を超える付き合いになる“吉田番”の寺尾編集委員が、知られざる素顔を明かす連載を「吉田義男さんメモリーズ」と題してお届けします。
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阪神の“お家騒動”はプロ野球界の名物だった。吉田さんは生え抜きで、計3度の監督経験者だけに図らずも起きた負の歴史を知り尽くした。時には中心人物にもなることもあった。
同じ球界を代表するスターだった村山実さんとの対立構図も遠因だった。「吉田派」と「村山派」--。本人たちに意識はなくても派閥ができた。マスコミ受けが良かったのは村山のほうだった。
甲子園球場の関係者レストラン「蔦」で、村山さんは新聞記者に囲まれながら食事をとった。かたや吉田さんは、その光景をちらりと一見しながら、1人で着席することが多かった。
「当時の食堂は選手と新聞記者が一緒になっていました。村山は記者の食事代まで全部もつようなところがあった。だから記者受けが良かったんでしょう。わたしは外部の人と仲良くする必要がないと思っていましたから、そんなことはしなかった。わたしの世間での経験が浅かったのかもしれません。でも今も間違っていたとは思っていません」
両雄並び立たずとは、このことだろう。1969年(昭44)オフ、シーズン2位だったにもかかわらず後藤次男監督は退任し、吉田さんとの対立が既成事実の村山さんが兼任監督に就いた。吉田さんは戸沢一隆社長から球団事務所に呼び出されて“退団通告”を受ける。
「わたしは現役をやめるつもりはなかったんですが、戸沢さんから『引け』と言われました。年下の村山がわたしがいたらやりづらいということだったんでしょうね。キャンプではコーチをと言われましたが、帰阪してだいぶたってからまた戸沢さんと会いました。よそでプレーするつもりはなかったから辞めざるを得なかったんです」
高知・安芸の秋季キャンプに参加していた際、戸沢社長から旅館「清月」でコーチの要請を受けたが断った。半ば強制的にユニホームを脱がされた。17年目、36歳。その時点で通算1864安打を記録していたから、現役続行なら2000本安打の大台に乗るのは確実だったはずだ。
村山退陣の後は金田正泰監督を挟んで、吉田さんが75年から監督の座に就いた。85年から3シーズン指揮をとった後は、再び村山阪神が誕生。87年10月16日、村山監督が吉田家を訪問した後、マスコミの前にご両人が相合い傘で現れたから色めき立った。
「その年、最下位に終わったわたしは、一蓮托生ということで全員が辞めるつもりでした。でも村山がうちにきてコーチの一枝(修平)だけは残してくれと言いに来たんです。でも残らなかった。村山を激励しましたよ」
吉田さんは「村山とは1度もケンカしたことがない」といったが、グラウンドでは激しくやり合った。
「村山はキャッチャーが内角のサインを出しているのに外角に投げる。こっちはサインで守備位置を変えてるから『なんでそんなことするんや!』というと『ひらめきだ』と言う。こっちも『じゃあその時点で知らせろ!』と声を上げた。そこはお互い激しかったですわ」
奇しくも2人とも後で日刊スポーツの評論家として健筆を振るった。「わたしはプロである以上、グラウンドで力を出し切るのがすべてだと思っていました」。その吉田さんの言い回しは、拙者の解釈では、最近の仲良し体質を指すのだろうと勝手に思っていた。【寺尾博和】