55年2月、甲子園球場で吉田義男氏(左)と写真に納まる三宅秀史氏

<吉田義男さんメモリーズ10>

「今牛若丸」の異名を取った阪神の名遊撃手で、監督として1985年(昭60)に球団初の日本一を達成した吉田義男(よしだ・よしお)さんが2月3日、91歳の生涯を閉じました。日刊スポーツは吉田さんを悼み、00年の日刊スポーツ客員評論家就任以前から30年を超える付き合いになる“吉田番”の寺尾編集委員が、知られざる素顔を明かす連載を「吉田義男さんメモリーズ」と題してお届けします。

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吉田さんが“戦友”と言ってはばからなかった人に、プロ同期生で三塁を守った三宅秀史(ひでし)さんがいる。三宅さんは「よっさん」、吉田さんは「みやけ」と呼び合った。

鉄壁の三遊間はプロ野球史にさんぜんと輝いているが、2人の関係がユニホームを脱いだ後も続いたことは、あまり知られていない。遠くに離れても、年をとっても、お互いが気遣った。

取材する立場から言わせてもらうと、どちらも一癖も二癖もある取材対象者だったに違いない。特に初めての人にはとっつきにくいが、それも見方を変えるとプロフェッショナルらしかった。

三宅さんには、彼を応援する「三宅会」という名の集まりがあった。これに吉田さんはしょっちゅう顔を出した。この会が企画した旅行にも篤子(とくこ)夫人とともに合流した。

拙者が聞いたところでは、三重県の世界遺産に登録される熊野古道で有名な紀伊長島に行ったかと思えば、香川県の岩黒島にも渡った。“日本のエーゲ海”と称される瀬戸内海で観光を楽しんだ。

タイの姿造り、かれいの煮付け、サザエのつぼ焼きなど海の幸に舌鼓を打った。三宅さんが「よっさんの送球に一塁の遠井吾郎がベースカバーに追いつかないんだもん」といって笑わせる。虎の伝統を支えたご両人がそろうのだから会は盛り上がった。

三宅さんの思い出の地でもある岡山・小豆島にフェリーで渡った先では、平和の象徴”といわれるオリーブ畑が迎えた。「二十四の瞳」の前ではご一行で記念撮影にも収まった。

1953年、阪神からスカウティングされた吉田さんは、立命大を1年で中退し、プロ入りする。同年、南海高(岡山)から阪神入りした三宅さんの三塁定着は55年からだった。

ショート吉田、サード三宅の史上最強の三遊間が完成した。「バックトスの名人」といわれた二塁手鎌田実も加わった守備力は、阪神が理想とした“守りの野球”の礎になったといえるだろう。

吉田さんは「三宅は特に三遊間寄りの打球に強かったんです。逆にわたしはセンター寄りが得意なほうだったんで、お互いがカバーし合った。そりゃ(打球が)抜けませんわな」と誇らしげだった。

そして三宅さんは「よっさんのところに打球が飛ぶと観客席が一瞬静まりかえるのよ。そして捕った後で『ワァーッ!』と歓声が上がるんだよね。名人芸としか言いようがないんだよな」と持ち上げた。

59年6月25日、後楽園球場で行われた対巨人の「天覧試合」も、吉田-三宅の三遊間が、巨人の広岡-長嶋コンビに対抗し、プロ野球が国民的娯楽になっていく先駆けになった。

吉田さんがフランス代表監督に就くと、三宅さんは渡仏して臨時コーチを務めた。小さなアパートを借りたキッチンでは、マルシェで買い求めた魚をさばいて出した。でもいびきはすごかったようだ。

吉田さんが大病を患った三宅さんを見舞ったのは20年10月だった。三重県鈴鹿市の白子にある「ときわ寿司」で、帰り際に「元気だせよ」と声をかけると、三宅さんは涙をこぼした。

これが最後の別れになった。約5カ月後に三宅さんは帰らぬ人になった。生前の吉田さんが「かけがえのない同志を失ったのは痛恨の極みです」と言葉を絞り出したのを覚えている。

「三宅会」は23年7月25日、甲子園近くの「やっこ旅館」で、吉田さんの「米寿を祝う会」を開いた。何を思ったか、吉田さんが「わたしは130歳まで生きます」と宣言したから全員が真に受けたのに…。

史上最強の三遊間。死ぬまで公私に付き合った。3月3日のひな祭り。この日は三宅さんの命日だった。そろそろ盟友だった2人はあの世で再会を果たしているだろうか。【寺尾博和】

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 【阪神】吉田義男さんのところに打球飛ぶと客席静まり捕球後「ワァーッ」三宅秀史さんと鉄壁三遊間