山城高時代の吉田義男さん

<吉田義男さんメモリーズ9>

吉田さんは「もう1度阪神タイガースの日本一と山城高校の甲子園出場が見たい」と言い続けた。本人の口から「死ぬまでに」というセリフを聞いたことはないが、そういう意味だと受け止めていた。

1985年(昭60)に阪神監督として21年ぶりのセ・リーグ優勝、球団初の日本一を達成した。23年に師弟関係で結ばれた岡田彰布監督が率いて、吉田さんに次ぐ日本一を成し遂げた。長年思いを寄せていた一つの夢がかなった。

今年は母校の山城高(京都)も今春センバツに出場する可能性があった。昨年12月に21世紀枠の近畿地区候補に選出されていた。それだけでも吉田さんは「京都の仲間らに報告してよろしいか?」と喜んだ。

最終的に今年1月に出場校32校を決める選考委員会で、山城高は“落選”した。当日は会議室に監督、選手、マネジャーらが集まってインターネット配信を見守った。選考から外れた瞬間、その場はしばらく静まりかえった。

吉田さんからは「わたしにくる阪神と京都の取材はできるだけ断らんといてください」と告げられていた。京都とは出身の「山城高」「立命大」を指した。それほど生まれ育った京都への愛着は強い人だった。

吉田の生家は、京都市内で薪炭業を営んだ。1933年7月26日、父正三郎さんと母ユキノさんの間に生まれた。2男3女の次男。太平洋戦争の戦禍を逃れるために学童疎開した。両親と離れて母方の実家、京都府南桑田郡本梅村(ほんめむら=現亀岡市)に身を寄せた。

吉田さんは「京都は戦前から野球が強かったんですわ」が口癖だった。小さい頃は自宅近くの竹内鉄工所の主人が集めた子供に交じって野球をした。本格的に取り組むのは、戦後の47年に入学した旧制京都市立第二商業からだった。

48年に戦時中に中断されていた甲子園大会が再開し、学制改革に伴って「高校野球」になった。吉田さんは記念すべき“第1回センバツ”の決勝になった京都一商-京都二商の伝説の一戦を補欠としてスタンドから見ている。

学制改革で49年に山城高に編入したが、その年4月に結核を患っていた父が他界し、9月には母も亡くした。野球部から勧誘されて6月に入部したのは、母から「義男は好きなことをやりなさい」といって育てられたからだった。

しかし、両親を亡くした吉田家は経済的に苦境に立たされた。生活していくのに必死で、吉田さんも野球どころではなかった。それでも伏見工建築科にいた兄・正雄さんが高校をやめて家業を継ぎながら生計を立てるのだった。

2つ年下の弟だった吉田さんは「兄貴は建築関係の仕事をしたかったはずです。とても商売に向く性格ではなかった。でもみんなの“父親代わり”になって、ぼくにも『野球を続けろ』と背中を押してくれた」と境遇を語った。

吉田さんは山城高2年だった50年夏、甲子園に出場した。これが母校にとっての初出場になった。開会式当日の第2試合、北海(北海道)に3-5で敗退した。当時は後に甲子園が“職場”になるなど思いも寄らなかった。

心残りが一つある。阪神監督で日本一になった年の吉田さんは52歳だった。その10年前に兄の正雄さんが43歳の若さで鬼籍に入っている。「わたしが野球でメシを食ってこれたのは兄貴のおかげです。兄貴には優勝を見てもらいたかった…」。吉田さんはそうつぶやいた。【寺尾博和】

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 【阪神】「もう1度阪神の日本一と山城高の甲子園出場が見たい」吉田義男さんの猛虎と京都への愛着