03年2月、安芸キャンプを視察し星野監督と

<吉田義男さんメモリーズ8>

「今牛若丸」の異名を取った阪神の名遊撃手で、監督として1985年(昭60)に球団初の日本一を達成した吉田義男(よしだ・よしお)さんが2月3日、91歳の生涯を閉じました。日刊スポーツは吉田さんを悼み、00年の日刊スポーツ客員評論家就任以前から30年を超える付き合いになる“吉田番”の寺尾編集委員が、知られざる素顔を明かす連載を「吉田義男さんメモリーズ」と題してお届けします。

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今年のプロ野球キャンプも終盤に差しかかった。阪神が太平洋を望む沖縄県国頭郡の宜野座村でキャンプをするのは、星野仙一監督でリーグ優勝を果たした03年からだ。以前から星野さんに沖縄に太いパイプがあった。

セ・パ両リーグに分立した1950年(昭25)、阪神キャンプは甲子園球場でスタートした。その後、鹿児島・鴨池、奈良、徳島などで練習することもあったが、65年から高知県安芸市に移った。80、81年は米アリゾナ州テンピ、83、84年はハワイ州マウイ島で行われた。

吉田さんが現役だった64年以来、阪神は20シーズンも優勝から遠ざかっていた。4位に低迷した安藤統男監督が退任し、紆余(うよ)曲折の末、最終的に吉田さんに2度目の監督が巡ってきた。阪急、近鉄で指揮を執った名将、西本幸雄さんの強い推薦だった。

吉田さんは監督就任会見の席上、その年まで行われていたマウイ・キャンプ継続の可能性について質問を受ける。当時51歳だった吉田新監督は「ハワイは優勝して遊びに行くところですよ」と海外からキャンプ地をひっくり返した。

その一言で、第二期吉田阪神1年目の85年から、阪神キャンプは高知・安芸に定着した。確かに特打、特守などをする施設、環境を考慮したとき、国内の方がベターだったかもしれない。

久万俊二郎オーナーからは「土台作り」を頼まれた。しかも、キャンプ地を移した85年に21年ぶりのリーグ優勝を達成、球団初の日本一になったのだから異論が出るわけはなかったし、本懐を遂げた吉田さんにとって安芸は思い出の地になった。

だから本紙の客員評論家になって、安芸キャンプ視察にいくと、名前も変わって、建て替えもされたのに、思い入れの強い当時チーム宿舎だったホテルに滞在し、サウナを上がった夜は土佐湾でとれた海の幸に舌鼓を打った。特に貝中心の“海賊焼き”が好きで、遅くまで野球談議が続いた。

そのホテルは当時「手結山(ていやま)観光ホテル」といった。もともと吉田さんは下戸だが「ホテルのバーで、ヘネシーやったか、ナポレオンやったか知らんけど、よぉブランデーが空きましたで」とうれしそうだった。

こちらはキャンプ取材で眠かったが、メモリアルイヤーの85年の語りは終わらない。「ここ(宿舎)ではいろんなことがありましたわ」。ホテルの坂道を下りたところには金柑がたわわになっている。いつも黄金色の果実をもぎとっては口に含んだ。

これも毎年の安芸を訪れた吉田さんのルーティンだった。「ええ味してますわ。阪神はいけますよ」。金柑の育ち具合によって、勝負をかける古巣のシーズンの行方を占った。そしてキャンプ地では歴代監督と対談する企画がお決まりだった。【寺尾博和】

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 【阪神】吉田義男さんが愛した海賊焼き、金柑、宿舎 吉田阪神の土台作った高知・安芸キャンプ