【悼む】吉田義男さん「日刊のスクープです」自宅張り込んだ記者をタクシーに乗せ向かった先は
阪神タイガースの監督として85年に球団史上初の日本一を達成した日刊スポーツ客員評論家の吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分、脳梗塞で亡くなった。91歳だった。京都市出身。通夜と葬儀・告別式は家族葬で行う。現役時代は華麗なフィールディングで「今牛若丸」と称され、引退後は阪神監督を球団最多の3度歴任。打倒巨人を生涯の信念とし、阪神を愛し続けた猛虎のレジェンドが天国に旅立った。
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「あれから」もう40年…。当時に経験した吉田義男さんとの関りが忘れられないでいる。
1984年(昭59)10月、時の阪神は次期監督問題で揺れていた。安藤監督の辞任により、後任候補は2人に絞られた。大物OBの村山実か吉田義男。大勢は村山で進んでいた。だがこれに「?」をつけたのが、時の日刊スポーツ阪神担当キャップ、西本忠成さんだった。
極秘裏に取材を重ね、導き出した結論は吉田監督誕生。10月23日付で報じた1面ニュースはたった1紙のスクープとなった。
その前日の深夜、西本に呼ばれた。当時はパ・リーグを担当していたが人手が足りず、急きょ指令が飛んだ。「明日の朝一番で吉田邸に行け。余計なことは話さなくていい。ただ吉田の動きだけマークせよ」。まだ暗い時間から吉田邸の前に立った。他紙の姿はない。
そこに新聞を取りに、吉田さんが現れた。「どこの社? 日刊かいな。思い切って記事にしてますな」と笑いながら、「どこも来てないし、まあ家に上がりなさい」と招いてもらった。トースト、サラダ、コーヒーをごちそうになり、しばらくすると「さあ、行きますか」となった。
自宅前にタクシーがきた。「途中まで乗りなさい」。向かうは阪神電鉄本社。「これでわかりますやろ。日刊のスクープです」と明かしてくれた。タクシーは大阪梅田に近づいた時、ちょうど福島あたりで吉田さんは急に車を止めるように伝えた。「ちょっとお茶でも飲んでいきましょ。運転手さんも一緒に」と3人で喫茶店に入った。
すると、ここでタクシーを変えるという。乗ってきたのは最寄りの阪急タクシー。「これから阪神の監督になるのに、阪急タクシーで前までいくのは、な。ここから阪神タクシーでいきます」と運転手さんに頭を下げていた。
車中で監督としての気構えを聞き、野球の本質のことも伝えてくれた。「あんたもここで別れます。記者として、ええ経験になったんとちゃいますか」。吉田義男という人の人柄に触れた気がした。
以来、吉田さんとは球場以外で顔を会わす場所も決まっていた。今はなくなったが、大阪梅田の「ビルケ」というサウナ。またホテル阪神のサウナ。割引券をよくもらい、裸の付き合いだった。汗を流し、整ったところでレストルームで野球の話を聞かせてもらった。何もかもが野球記者として、勉強になるものばかりだった。あれから40年…。昨年会った時、「またサウナに行きたいな」と伝えられた。
監督を退いてから、教え子の掛布や岡田の成長を、本当に喜んでいた。「阪神は強くないとダメなんだ。巨人と争うライバルでいないと」。年老いても猛虎魂は陰ることはなかった。【日刊スポーツOB・内匠宏幸】