殿堂入りイチロー氏との「運命」本紙編集委員が思い出す、25年前のやりとりで感じた覚悟と人間性
日本人初の米野球殿堂入り、そして日米の殿堂入りの偉業を達成したイチロー氏だが、今回も“満票”はならなかった。90年代に長く取材した高原寿夫編集委員が米球界挑戦時の秘話を語る。
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また「満票ならず」という話になるのかな、と思っています。日本側で満票でなかったとき、あるメディアで球界の長老というべき人が「私もイチローには入れない」などと話したとネットニュースに上がっていました。「人間性」の問題だそう。そもそも満票になる必要はないと思いますし、誰が何を言ってもいいのですが、正直「ふうん」と思ったのは事実です。
この日「地球上で誰も想像していなかったでしょう」と話すイチロー氏の表情を見て思い出すのが25年前の出来事。過去にも少し触れた個人的な話で申し訳ないのですが、少し書かせてもらおうと思います。
イチロー氏の大リーグ挑戦が決まったばかりの00年11月。私の妻が35歳の若さで急死しました。3番目の女児を出産した後。7歳の長女、4歳の次女と3人の娘を残した旅立ちでした。
当時、こちらは広島カープ担当。通夜、告別式は親族、知人の多い大阪で行いました。親族以外いなくなった通夜会場にイチロー氏が姿を見せ、何も言わずにこちらを見ています。
「大リーガーが来てくれたんや。ヨメさんの顔を見ていって」。なんとかそう言うこちらに「そうですか」とお棺の窓を開け、じっと見つめていました。
それから約1カ月後。広島支社のデスクに座っていたとき。携帯電話が鳴りました。イチロー氏からです。向こうから電話をかけてきたのは記憶では過去に一度だけでした。
「先日はありがとう。どうした?」。そう言うと電話の向こうで「いや、元気ないだろうなと思って…」などと語り始めたのです。10歳年下ですが大スター。そんな男がこちらの心情に配慮しながら「運命というのはあると思うんです」などと話し始めます。
その通りと思いつつ、いつもの調子で憎まれ口をたたいてしまいました。「運命か。そうやな。イチローも大リーグで失敗するかもしれんしな」。すると彼はこう返してきました。
「そうですよ。そのときは日本でやり直します」。その言葉に並々ならぬ覚悟を感じました。熱い血が通っている、と感じた瞬間でもありました。その熱さがあっての偉業なのです。
イチロー氏を完璧と思ったことはありません。口論したことも。人によって受け入れにくい面もあるでしょう。しかし一般人であれ、スターであれ、完璧な人などいない。もっと言えば球界の人たちはクセが強いのです。
元オリックスの星野伸之氏は笑って、こう話したこともあります。「イチローを変わってると言う人もいるかもしれないけど、普通の人があんなことできるはずないですよ」。大きく、うなずいたもの。人の見方はさまざまでしょうが同じ時代に生き、日本側だけですが殿堂入り投票にその名を書けたことはよかった、そう思っています。【編集委員・高原寿夫】