元ヴィッセル神戸GK兼本正光さん(撮影・永田淳)

<阪神・淡路大震災企画>

人々の生活だけでなく、サッカー界にも甚大な影響を与えた阪神・淡路大震災から、17日で30年になる。節目の年となる今季は、被災地を本拠とする神戸が、同じく川崎製鉄にルーツを持つ岡山とJ1で初対戦することになった。深い関わりがあり、震災時にもタッグを組んだクラブ同士の数奇な巡り合わせ。5月の神戸ホームで対戦する。神戸と岡山の両クラブでプレーしたOB兼本正光さん(62)は、J1での再会を心待ちにしている。【取材・構成=永田淳】

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昨季J1連覇を果たした神戸は、30年前の震災とともにスタートした。クラブとしての初練習を予定していた95年1月17日早朝に、震災が発生。苦難から、その歩みを始めた。応援歌「神戸讃歌」には復興への思いが込められている。

兼本正光さんは、30年前をよく知る選手の1人。神戸の前身となったJFLの川崎製鉄水島製作所(岡山県倉敷市)から、クラブ立ち上げに合わせて出向選手として神戸に加入。活動初日に備え、前日に倉敷から移動していた神戸市長田区の実家で被災した。

「いきなりドーンときて、ベッドから浮き上がった感じやった」。

震災後の神戸は、練習どころではなかった。連絡もままならず、身動きも取れない日々。そんな窮地のクラブに手を差し伸べたのが、兼本さんの出向元である川崎製鉄だった。倉敷市内で宿舎とグラウンドを確保。これでようやく神戸はチームとして動き出した。以前サッカー部が使っていた「第6寮」で、3人1部屋での雑魚寝。天然芝の福田公園が使えない時は、土の広江サッカー場で練習するなど、恵まれた環境ではなかった。それでも選手にはありがたかった。「(メインスポンサーの)ダイエーが撤退する話もあって、解散するんじゃないかと不安だったから、サッカーができることにほっとした」。

震災のあった95年は6位に終わったが、神戸は96年にJFLで2位に入ってJリーグ昇格を決めた。「地震で被害を受けているにもかかわらず、応援してくれるファンがいた。何とか明るい話題を提供したかった」。その思いを結集した。

98年まで神戸に所属した兼本さんは、翌年に川崎製鉄に復帰。同社サッカーOBが中心のクラブで、後に岡山の母体となるリバーフリーキッカーズ(RFK)のメンバーに加わった。そしてRFKがファジアーノ岡山となり、初年度にあたる04年まで現役を続けた。

クラブの前身があった倉敷に助けられた神戸と、地元で時間をかけて成長を続けた岡山。ともに川崎製鉄のDNAを持つクラブは、岡山が初昇格したことで、J1の舞台で対戦する。「年の離れた兄弟が、けんかするような感じ。J1の舞台にふさわしい試合が見たいですね」。両軍で初期メンバーだったGKは、30年の時をへて始まる歴史の1ページに思いを巡らせた。

○…兼本さんは18年7月の西日本豪雨でも被災した。甚大な被害が出た倉敷市真備町川辺に住み、自宅の一軒家は「2階でもひざ上まで水が来た」。大切に保管していた神戸時代のユニホームや記念品、写真は全て水につかり、残ったのは2階に飾る集合写真のパネルのみ。厳しい状況だったが「昔のサッカー仲間が来てくれて、家はすぐに片付いた」。ただ30年の時が経過して、当時を示すものも少なくなってきている。

◆ファジアーノ岡山 川崎製鉄水島製作所サッカー部OBが75年に結成したリバーフリーキッカーズ(RFK)を母体として誕生。初年度の04年に岡山県1部を制し、08年に中国リーグからJFLに昇格、09年から昨季までの16シーズンでJ2。24年のJ1昇格POを勝ち抜いてJ1初昇格。

○…神戸と岡山は13年のJ2で2度対戦した。戦績は神戸の1分け1敗。4月の初対戦では、ホーム神戸がFW田代の2ゴールなどで3-0とするも、終了間際に岡山が立て続けに3点を決めて同点に。7月の岡山ホーム戦では、開始早々にFW押谷が決めた1点を守り切って岡山が勝利した。

◆兼本正光(かねもと・まさみつ)1962年(昭37)10月17日、兵庫県生まれ。ポジションはGK。兵庫・御影工から81年に川崎製鉄水島製作所に進み、95年から出向選手として神戸でプレー。99年に川崎製鉄に戻り、岡山前身のRFKに加入。岡山1年目の04年に引退。Jリーグ6試合出場。現在はJFEスチールの厚生施設管理を務める。

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 阪神淡路大震災の日にスタートした神戸、同じルーツの岡山「年の離れた兄弟」ついにJ1で初対戦