渡辺恒雄氏死去「たかが選手」発言で物議 “ナベツネ”として矢面に立ち続け存在感発揮
読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏が19日午前2時、肺炎のため、都内の病院で死去した。98歳だった。読売新聞社で社長、会長を歴任しながら生涯記者を貫く一方、巨人の元オーナーにして球界のリーダーであり、スポーツ界にとどまらず経済界にも強い影響力を及ぼした。直近では3月21日に帝国ホテルで行われた燦燦会に出席し、阿部監督率いるチームを直接激励したのが最後の公の場で見せた姿だった。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は長男睦(むつみ)さん。後日、お別れの会を開く予定。
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球界のドンの訃報に、球界、スポーツ界のみならず政界、経済界から次々と悼む声が上がった。19日午前2時に渡辺氏が死去したことを受け、オーナーを務めた巨人から長嶋氏、原氏、阿部監督がコメントを発表。各球団オーナーらも発信した。記者時代から強い影響力を及ぼしてきた政界からも弔慰が届いた。一記者にして新聞社経営者、球団オーナーとして、時代を超えて辣腕(らつわん)を発揮した巨星が去った。
50年に入社した読売新聞社では、戦後の混沌(こんとん)とする中、政治畑に身を置いた。野球やスポーツとは無縁だったが、87年に就任した副社長として巨人軍最高経営会議に参画すると、巨人と強く関わり合うようになっていく。96年にオーナーに就任すると、発言力は球界全体にも波及していった。04年の球界再編騒動では10球団1リーグ制移行を押し通そうと、選手会と衝突。ストライキ権発動まで発展した。その際の「たかが選手」発言が、大きく物議を醸した。
ホリエモンことライブドア堀江貴文社長(当時)が球団経営参加のため買収が表面化した際には「知らない人が入るわけにはいかないだろう。僕も知らないような人が」と突っぱねた。一方で、ディー・エヌ・エーによる横浜ベイスターズ買収に際しては、南場智子社長と対面後に態度を軟化。IT企業が台頭する時代の流れに逆らうのではなく、受け入れながら白黒ハッキリしたスタンスと物言いで、存在感をあらゆる場面で発揮した。
91年、FA制導入には選手会を後押し。ドラフト制度が独禁法違反を訴え撤廃を主張するなど、過激発言をしながら激論を交わし、球界の改革に寄与していった。Jリーグ発足目前の90年代前半には、Jリーグ川淵三郎チェアマン(当時)と、報道を通じて批判合戦を繰り広げた。ただ一記者としてのこだわりだったのか、取材の場を避けることなく、“ナベツネ”として矢面に立ち続けた。
直近では今年3月の燦燦会に、車いす姿で登壇。「足を痛めておりまして、どうもヨタヨタしており申し訳ございません」と切り出しながら、3シーズン優勝から遠ざかっていたチームにハッパを掛けていた。10月11日の祝賀会では欠席し、山口オーナーがメッセージを代読。「日本一奪回に向け声援をお願いします」という言葉が、最後の言葉となった。
◆渡辺恒雄(わたなべ・つねお)1926年(大15)5月30日、東京都生まれ。東大文学部哲学科卒業。50年に読売新聞社に入社し、ワシントン支局長、政治部長、論説委員長などを経て91年、社長・主筆に就いた。02年、読売新聞社の組織改革に伴いグループ本社の社長・主筆に就任。04年から会長・主筆となり、16年から代表取締役主筆。巨人のオーナーには96年に就任。04年8月、球団が大学生の投手に食事代などを不正に渡していたとしてオーナーを辞任。05年に会長として復帰し、14年には最高顧問に就任。16年3月、球団選手の野球賭博への関与が明らかになり引責辞任。99~03年に日本新聞協会会長。01~03年に横綱審議委員会委員長。08年に旭日大綬章を受章した。
▽巨人内海投手コーチ 残念でしょうがないですね。今年もシーズン前の激励会に来られて、元気な姿を拝見させていただいたので。
▽侍ジャパン井端監督「私がジャイアンツに移籍した時、やさしい言葉をかけてもらい、よく気にかけてくださった思い出があります。長きに渡り日本球界発展のためにご尽力いただき、感謝しかありません。心よりご冥福をお祈りいたします」