FC町田ゼルビアの相談役を務める守屋実さん

Jリーグ60クラブ中、少年サッカーチームを母体としたクラブはFC町田ゼルビアだけだ。

「1977年にまいたタネがここまで来たんです」

守屋実さん(74=同クラブ相談役、NPO法人アスレチッククラブ町田理事長)はそう言って目を細めた。

■77年少年チームFC町田が誕生

77年(昭52)に小学生チームの「FC町田」が誕生した。小学校の教員であり、町田市サッカー協会の普及部長だった。当時は長谷川健太(現名古屋監督)がいた清水FCなど市の選抜チームが全国を席巻。先進事例をモデルに「全国で町田の名をとどろかせたい」とチームを立ち上げた。

その先の受け皿を作るべく、段階的に中学生チーム、高校生チームも併設した。それが89年の「FC町田トップチーム」へとつながった。創設者は元町田市サッカー協会理事長の重田貞夫さん(11年没)。「街の中に1つのクラブチームのピラミッドを作りたい」。義兄でもあった重田さんが描いたビジョンだった。

91年から東京都社会人リーグに参戦した。一方でJリーグが始まった93年、横浜フリューゲルスが町田への移転を模索。それを受けプロクラブを誘致する運動が盛り上がった。ちょうど理事長を引き継いだ。署名活動で8万筆を集めた。

しかしハードルが高かった。「当時はJリーグバブル。行政にこういう練習場を作ってほしい、こういうスタジアムをこうしてほしい、と色々言ったら、行政がもうそんなのできないって引いちゃった」。あえなく頓挫した。

そこで今度は95年に「町田にJリーグを実現する会」を発起し、自らのトップチーム、FC町田でJクラブを目指すと宣言した。「みんなに大笑いされた。このポンコツチームが?」。東京都1部リーグでも勝てていなかった。

■好き放題、誰も言うこと聞かない

現実は厳しかった。地元選手たちの一般セレクションを行い新たに作り直した。ただ、チームは勝手好き放題。「誰も言うことは聞かない。それぞれがやりたいプレーをしてばかり。連れてきた監督も追い出しちゃうぐらいだった」。

その1期生だった選手もこう証言する。「みんな意識が低いし、チームはまとまらない。あの状況から本気でJリーグを目指していた当時の大人の人たちは、本当にクレイジーだった」。

練習は夜8時から。指導できる人がおらず、小学校教員の守屋さんが引き受けていた。やってきたのは1人だったことも。「雨が降りそうだからとか。今日の練習どうしようかなんて言ったのを覚えている」。

関東リーグ昇格はおろか東京都でも勝てず、1部からも降格しそうなほど低迷した。チームは解散の危機。「もう一度やり直そうと。2001年に駄目になって、もうウミが出たというか、ご破算に願いますって」。しかし後になってみれば、まさに「ピンチはチャンス」だった。「そっからやり直そうというヤツらが集まってきた」。

■大海原にこぎ出した小舟だった

03年にNPO法人を立ち上げ市民クラブとしてプロ化へのかじを切った。途方もない夢に向けて走り出した。

「行き先はあったが、大海原を小舟でこいでいるようなもの。それが途中から小舟に動力が付いて、だんだんとスピードが付いた。だけど本当に遠いなと思った。とにかく関東まで行こうと思った。そこまで言ったら自分の役目は終わりにしたいと思っていた」

夢中で転がった。ただ少しずつ形が見えてくれば、周りに協力者が現れ、少しずつ活動に幅が出てくる。それは小さな雪だるまが少しずつ大きくなっていき、それを押す人が1人、また1人と増えていくような感覚だった。

05年に東京都1部リーグで優勝を果たし、関東2部リーグへの昇格を決めた。08年に株式会社ゼルビアが誕生し、同年に戸塚哲也監督のもとでJFL昇格が決まった。10年、相馬直樹監督のもとで天皇杯に初出場。さらに11年にJリーグへの入会が承認され、J2参戦が決定する。一つずつ、階段を上っていった。その傍らに、いつも守屋さんがいた。

「市民運動だからやめるにやめられなかった。地域のみなさんにやるぞって言って、地域のみなさんに応援してもらったわけじゃないですか。うそつきになっちゃう。言っていることには誠実でありたかった」

■寄せ集めの町田市民を一つに

町田市民は地方から来た人たちの「寄せ集め」で、街にアイデンティティーがないと感じていた。「バラバラだった町田市民をなんとか一つにできないか。スポーツコミュニティーを作ることだと思っていた。俺の街にはゼルビアがあるぜって、そういうものが欲しかった」。

クラブとは地域住民の公共財だと言い続ける。

「このクラブというのはいろんな人の思いが詰まっている。引き継いでいく川の流れのようなもんだから。ポンと会社をつくってもうからないからやめたとか、そういうものじゃない。地域の人にとってなくてはならないもの。このクラブがなければ困るよって言われるようなクラブになること。ふるさと意識、そういうものを持ちたかった」

緑の芝生の上でスポーツに興じるドイツ・ケルンの風景を思い描いた。日本人最初のブンデスリーガーとなった奥寺康彦さんがいた街だった。

生まれ育った町田を愛していた。定年となる1年前、59歳まで小学校教員として教壇に立った。FC町田があったため、管理職は選択せず、あえてサッカーに時間が割ける一教員であり続けた。律義で誠実な人物像。真摯(しんし)に子どもたちの未来と向き合った。スポーツを通じ、豊かな社会作りを目指したい-。その先にあったのがゼルビアだった。

■「生きているうちにこんな風景が」

役目を終えた守屋さんは今、一サポーターとなって歌い、チームをスタンドから見守っている。そしてFC町田ゼルビアは初のJ1挑戦で堂々の3位に入った。来季のアジアチャンピオンズリーグ(ACL)進出も手にした。新たな歴史がまた一つ加わった。

「おおかみ少年にならなくて良かった。来るぞ、来るぞって言ってできなかったら本当にうそつきになる。みんなが本当によく応援してくれた。生きているうちにこんな光景が見られるなんて。重田先生やみんなに見てもらいたかった」

荒野に「FC町田」というタネがまかれてから47年。町田の街にしっかり根付いたゼルビアの花は、きれいに咲いた。【佐藤隆志】

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 町田にゼルビアのタネをまいた守屋実さん「おおかみ少年にならなかった」47年の途方もない物語