パリ五輪サッカー男子日本代表大岩剛監督にエールを送ったSC相模原平野孝SD(左)と望月重良創業者兼フェロー(撮影・佐藤成)

<パリオリンピック(五輪):サッカー・日本-スペイン>◇2日◇男子準々決勝◇リヨン競技場

D組を3連勝で首位通過したサッカー男子の日本が準々決勝でC組2位のスペインと対戦。

チームを率いる大岩剛監督(52)と00年夏に名古屋グランパスを電撃的に退団したJ3・SC相模原の望月重良創業者兼フェロー(51)と相模原の平野孝スポーツダイレクター(50)がこの日までに取材に応じ、当時の“事件”を語りながら、盟友の健闘を祈った。

【取材・構成=佐藤成】

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3人は学年こそ違うものの、今では、40年来の仲だ。サッカー王国の静岡市清水区(旧清水市)で育ち、地域の選抜チームだった清水FCの先輩後輩だった。

小学校低学年からそれぞれのチームで対戦した記憶もある。また清水FCでは小学高学年~高1までが金曜日の放課後に同じ練習を行うという珍しい取り組みもしていて、学校や学年が違っても仲間だった。

高校は全員が名門・清水商業(現・清水桜が丘高等学校)に進学。大岩監督が3年時に望月氏が2年で平野氏が1年。ここで全員がそろった。

望月氏は大岩監督をこう評す。

「頼りになるというか、キャプテンを支えながらチームに安定をもたらすというか、安定を保つ、調整役だった。高校も大学もプロもずっと同じような感じ。ずっと大岩剛って感じ」

平野氏はこう言う。

「学校では優等生的な感じ。冷静沈着だった。剛くんとは親しくさせてもらっていて、1年のうち6~7カ月は大岩家で過ごした。泊まりに行って、朝練に一緒に行くとか。他の先輩たちと行って、剛くんのお母さん、お父さんにもお世話になりました。自分の家のように行っていましたね」

望月氏は大岩監督と筑波大でも共闘した。アパートも隣。「入って左が藤田俊哉さん家で、右側が大岩剛。真ん中が俺だった」と懐かしがった。

93年のJリーグ発足と同時に高校を卒業してひと足先に名古屋入りしていた平野氏のもとに、大卒で大岩監督、翌年に望月氏が入団して再び3人が集結した。

平野氏「正直うれしかったです。一緒に生活した人とプレーできるのは感覚的にもありがたかった」

望月氏「小さい頃から同じサッカー観でやっていたのが大きい。バックボーンが同じというのは大きかった。ピッチレベルでも、ピッチ外でもサッカーに対するメンタリティーも共有できたのでやりやすかった」

チームは結果を残していった。95年に天皇杯のタイトルを獲得し、96年はベンゲル監督のもとリーグ2位。98年、99年もトップ5を維持した。勝つために妥協しない清水商のメンタリティーがチームに流れるようになった。

そんな矢先、Jリーグ史に残る“3選手退団事件”は00年に起こった。日本代表クラスの3選手がシーズン途中に「チームの和を乱した」としてチームを去ることになった。

望月氏はこう振り返った。

「政治の部分もあったと思うよ。僕らはそのサッカーに対して子どもの時から本当にお互いを妥協せずにより良いサッカーを求めていく。これが、もしかしたらクラブ内で浮いてたのかもしれないし、それが目立っていたのもある。みんな代表だったし、ねたみもあったのかもしれない。

あとは2000年は大型補強して、優勝だというときに責任論というか、誰が責任取るかというので、僕らに(矛先が)来たのかも。実際は分からない。説明を受けていないから」

3人はチームの練習から外された。ブラジル人のジョアン・カルロス監督からではなく、クラブのスタッフからある日告げられたという。

望月氏の口調に熱が帯びる。

「実際はクビではない。いようと思えばチームにいられた。ただ、試合に出られないんだったら俺らは外に出ていく、と。マスコミはわかりやすく戦力外通告とか解雇とか言ったけど、契約は残っていた」。

代表選手としてクラブで試合に出る必要があったため、移籍を望んだという。

平野氏もうなずきながら「1カ月くらいプレーできない状況が続いていたので、このままだと自分のサッカー選手としての価値が落ちる。そこで手を挙げてくれたチームがあった。だから『移籍』です」。

大岩監督はジュビロ磐田に、望月氏と平野氏は京都サンガへと、それぞれ移籍し、ともにプロサッカー選手を続けた。

現役を引退し、それぞれの道を歩む。大岩監督は指導者になり、望月氏はSC相模原を立ち上げ、平野氏は指導の現場からクラブ統括の立場へ。そしていま、大岩監督は日の丸を背負い、五輪の大舞台で指揮を執る。

望月氏「もどかしさとか悔しさというのは、すごく(当時)1カ月間ぐらい味わった。同じこの悔しさを共に味わった仲間だから、3人だから仲間意識がより濃くなるよね。今になって、剛くんが五輪に出て、平野が神戸でSDやったり、相模原のSDやったりしていると、すごくうれしく思うよね」

別々の立場から眺める大岩監督の指導者としての資質を2人はこう語る。

望月氏「監督はいつも冷静じゃなきゃいけない部分があって、そういった意味ではすごく合っているんじゃないかな。いくら戦術がどうのこうのとか言っても、最後はやっぱ結果だから。チームを勝たせるということで言えば、やっぱほんとに日本のトップクラス」

平野氏「今こういう成績を残せているというのは驚きはないですよ、勝者のメンタリティーを持っているし、勝利するためのプロセスみたいなものは、自分の中で絶対持ってるはずなんですよ。だからこそ結果も出る。あとは人に慕われる。剛さんのこと変なこと言う人聞いたことない」

5月には、パリ五輪アジア最終予選兼U-23アジア杯カタール大会優勝の祝勝会と、五輪の激励会を行った。

サッカーの話というよりは、昔からの同志がそろってたわいもない話が続くという。平野氏は「プレッシャーのかかる仕事だから、僕らといる時くらいは、気楽に過ごすことを望んでいると思う。僕らはそこに徹するだけ」。

望月氏も「親身に相談に乗るというよりは、(早期敗退で)早く帰ってくるなよ、と長い付き合いだからこそわかる冗談をいう感じ」と明かした。

望月氏は「(パリ五輪を)思い切り楽しんでほしい。帰ってきた時に、またワインをごちそうするから。成績によってワインのランクも考えようかな」と笑った。

平野氏は「剛くんがパリの舞台に立てることがうれしいですね。オリンピックが僕と剛くんの新たな思い出になればいいですね」。

この夏の大岩剛監督率いるサッカー男子の決勝トーナメント進出は、強い絆で結ばれた3人の大切な記憶の1ピースになるに違いない。

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 【五輪代表】Jリーグ史に残る大事件 大岩監督と退団を余儀なくされた盟友が明かすあの時の真実