- 週間ランキング
出身は静岡県の田舎で、電車も通っておらず茶畑と海に囲まれた場所です。毎日富士山を眺めながらのびのび過ごしていました。
中学時代は体操部に入部し、昭和の根性論で部活に明け暮れた日々でした。
その時痛めた腰に、今でも悩まされていますがね(笑)
友達にも恵まれ、放課後も毎日が楽しかったです。
今思い返すと、ファッションへの最初の興味は、兄がきっかけだったように思います。
兄とは少し歳が離れていて、私が中高生の時はすでに社会人でした。当時はバブル全盛期。洋服好きな兄は流行りのブランド品や派手な服をとても楽しそうに着こなしていました。
先ほど言ったように、私の故郷は自然ばかりで、学校にも30分以上歩いていくような場所だったんです。そんな田舎町で、兄がたくさんの洋服を買って、おしゃれしてでかけて行く姿にとても憧れました。「私も高校卒業後は、東京で服飾系の学校に行きたい!」と思うようになったんです。
時々、兄の服を拝借しては怒られ、よくけんかをしていました(笑)
はい。洋服のコーディネートが好きで、もともとはスタイリスト志望だったのですが、卒業後の進路の選択肢がより幅広い文化服装学院の「服装科」へ進学しました。
専門学校時代は、勉強に課題にとても忙しかった思い出があります。
でも、よかったと思うことは、専門学校に行ったことで周りの友達もみんな「洋服が好き!」ということでした。確かに課題を期日通りにこなすのは大変でしたが、個性的な友達と一緒に遊んだ時間は、本当に楽しくて仕方がなかったです。
あと、登校初日に新宿南口駅から文化服装学院へ歩く先輩たちがあまりにもかっこよかったことは衝撃でしたね。
古着のリーバイス501のジーンズを履き颯爽と歩く姿は、洗練され大人っぽい印象がありました。そこからデニムが大好きになり、古着屋めぐりをしては買い、自分なりに履きこなしていました。
時には、生デニムから自分なりのシワを育てたり。それは今でも変わらず、古着屋めぐりをしていると、ワクワクしてクリエーション欲が高まります。
そうかもしれません(笑)
でも、そういった学生時代の友達とは今もずっと連絡取り合って繋がっているんですよ。改めてそういう友達って「宝物」だなあと感じますね。
同じものが好きで、同じ方向を向いてずっと一緒に頑張っていた仲間たち。とてもいい関係性でした。
専門学校卒業後はアパレル業界の営業としてある企業に就職しました。
憧れのアパレル業界で仕事に就けたこと自体にはワクワクしていたのですが、振り返ると学校では「製作」一本で、服ができてからの流通や販売のことは右も左も分からなかったのを覚えています。営業として、商品が完成してからお店に届くまでの過程をゼロから学んだという感じでした。
この会社で頑張ろうと意気込んではいたのですが、学生時代に患った腰痛持ちが悪化してしまい、体調不良でやむなく退職しました。
はい、次は小さな会社でしたがデザイナーとして転職しました。
前回はデザインに全く関われなかったので、服のデザイナーとして仕事ができると思ったのです。しかし、まだまだ若手のデザイナー。自分のデザインが採用されることはほぼなく、振るわない日々が続いていきましたね。
その頃、プライベートで着たいと思う服が見つからず、自分で作るようになったのです。
すると、周りの先輩たちが「それかわいいね、どこで買ったの?」「私にも作ってほしい」と褒めてくれたんですよ。
本当にそうなんです。実はそのタイミングで地元の友人が「洋服屋さんをやるから、そこに服を卸さない?」と誘ってくれたのです。びっくりしましたが思い切ってチャレンジしてみました。すると、自分の服が順調に売れたんです。
そして、22,23歳の時に今度は別の友人から「自分のブランドを立ち上げるから、同じタイミングで君もやらない?」と誘われたのです。
会社では、自分の思うようにデザインをさせてもらえていなかった現状もあり、まだまだ若く怖いもの知らずですよね。その友人の一言で私も自分のブランドを立ち上げることになったんですよ。
先ほど、「友達は宝物」と話しましたが、専門学校を卒業した直後の20代を振り返ってみても、昔から友人に恵まれていたなあと心底思いますね。
あとは、時代も本当にいい時代でした。
実は当時ファッション業界では、小さなブランドが独自でファッションショーを開催していました。評価され、服が爆発的に売れ始めると企業へと成長できる、そんな時代でした。
洋服もデザイン性が強いモノも受け入れられるような時代。私も昼間は家で洋服作り、夜はバイトで生活費稼ぎという日々に没頭していました。
そんな時に、「ラフォーレ原宿」でデザイナーを育成するプロジェクトが立ち上がり、友人に声がかかったんです。ラフォーレ主催で洋服の合同展示会が開催され、大きくなったブランドは、ゆくゆくラフォーレに出店させたいというプロジェクトだったと思います。
そこで、私も一緒にどうかと声をかけていただき、今まで以上に洋服を作るようになりました。泊まり込みで仕事をし、朝、佐川急便のお兄さんに起こされるという、今では考えられないような仕事の仕方でしたよ(笑)
雑誌に掲載もされるようになり、全国のお店から買い付けに来ていただけるようになりました。ファンの学生さんから激励のお手紙をもらったり(今でも、もちろんとってありますよ!)、若いからこそできたのだと思いますが、「苦労を苦労と感じていない」ような毎日でした。
本当ですよね。人から人にご縁が繋がり、好きなことにだけに夢中で充実した毎日だったと思います。実はあまりの忙しさに、その頃の記憶が抜けているんですよね(笑)
しかし、続けていくうちに、「果たしてこのままでいいのか」と漠然とした不安が大きくなっていったのも事実なんです。商売やマーケティングの基礎がないままでしたし、自分の興味がある洋服は作れるけれど、洋服の生地や素材に関しての知識がまだまだでしたから。
そこで、(これもたまたまご縁なのですが)、当時新宿伊勢丹の名物バイヤーと言われた方の紹介で、あるデザイナーの方に繋げていただきました。色々と悩みを相談するうちに、その方のアシスタントをやることになったのです。
今まではずっと、作ること、販売することを中心に動いていましたが、その方のもとで「学ぶ時間」を設けようと。
洋服のデザイン、素材について、少し俯瞰的に勉強する期間を3年間取ることにしました。この時27歳でしたから、自分のブランドは一旦閉鎖して、30歳の時に再スタートを切ろう!と決心したのです。
洋服のコンセプトも今まで私がやってきたものとは全く毛色が違い、とても勉強になりましたね。
加えて、改めて「企業・組織」の中で働くという全体像も学べたのも大きいと思います。予算があり、各役割がある。会社という流れを見ることができました。
しかし、仕事をしていく中で何度そのデザイナーに泣かされたことか。心の中で(笑)
今振り返ると激動の20代でしたが、それでも「みんな同じ方向を向いて頑張っている!」と感じられる充実した日々でした。
後半の記事は こちら から
余暇プランナー
気軽に始められる趣味さがしや休日の過ごし方など、余暇の時間を充実させる情報を発信する体験発信メディア「YOKKA」の編集部です。新たな挑戦のスタートをそっと後押しし、日々の暮らしを豊かにするアイデアをお届けします。
ファッションブランド C’est pas Grave 代表 益田美代子氏に聴く、好きなものへ突き進むということ(前編)