6月公開予定だった最終作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が、新型コロナの影響で公開延期となっている。そんな“新エヴァ”シリーズに恋愛コラムニスト・恋愛カウンセラーが愛あるダメ出し! 今回は碇ゲンドウ&赤木リツコの関係編。



 



 



■“旧エヴァ”と“新エヴァ”の違いをおさらいしておこう



 



中高時代の4軍男子(非モテ)から這い上がった経験をもとに、恋愛をロジカルに分析する恋愛コラムニスト 兼 恋愛カウンセラーの堺屋大地です。



 



さて、『エヴァンゲリオン』には大きく分けて2通りのシリーズがあります。『新世紀エヴァンゲリオン』として、1995年から始まったテレビ版(全26話)と旧劇場版2作からなる通称“旧エヴァ”。そして『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』として、2007年からリブートした『序』・『破』・『Q』、そして最終作となる『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の4作からなら通称“新エヴァ”。



 



現時点(2020年8月2日)で、公開延期された“新エヴァ”シリーズの最終作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、具体的な公開日が発表されていません。



 



筆者が10代の頃から追いかけていた『エヴァンゲリオン』が、完全完結(たぶん)するということで否応なしに期待感は高まっているわけですが、恋愛コラムニスト・恋愛カウンセラーとして、恋愛論的観点で“新エヴァ”シリーズの納得のいかない点を独断と偏見で述べさせていただきます。



 



 



■愛憎渦巻く重厚な人間ドラマというファクターが薄れた…



 



“新エヴァ”シリーズへの不満……それは主人公・シンジの父でありNERV司令官の碇ゲンドウと、科学者でありE計画責任者である赤木リツコ、この二人の愛人関係が描かれなかったことです。最終作で二人の関係に触れられる可能性もあるが、『序』・『破』・『Q』では愛人関係を匂わせた描写さえも出てきていません。



 



“旧エヴァ”では二人が愛人関係であることが、リツコの口から如実に語られていましたよね。ダミーシステムを破壊したリツコに、その理由を問うゲンドウ。リツコはその問いの答えとして、「あなたに抱かれても、嬉しくなくなったから。私のカラダを好きにしたらどうですか? あのときみたいに!」と切り返します。二人がベッドをともにするような直接的な描写はなかったものの、このシーン以外でもゲンドウとリツコが愛人関係であったことは語られていたのです。



 



二人の愛人関係が示されなかったことで、“新エヴァ”のリツコはキャラも存在感も薄め。“旧エヴァ”では一見すると科学者として私情を挟まない冷徹な振る舞いをしながら、実は作中屈指とも言える“女”としての情念を抱えているというギャップに、リツコの苦悩と葛藤が表現され、そこに彼女の人間らしさ(キャラ立ち)があったからです。



 



さらに言うなら、“旧エヴァ”ではリツコの実母とゲンドウが過去に愛人関係にあったことも示されていました。リツコはそれを知りながら、ゲンドウに惹かれていたんですよね。母娘で同じ男に抱かれ、もてあそばれ、用済みになったら捨てられるという恋愛的悲劇がリツコを襲うからこそ、表の顔であるリツコの冷徹さも深みを増していました。



 



またゲンドウは自分の目的のためなら、他者(リツコとその母)を骨の髄までしゃぶり尽くして利用するという、とてつもない利己性を持っていることも、彼のゲスさを際立たせていたものです。



 



“旧エヴァ”はこのように、主要キャラの少年・少女たちが知りえない舞台裏で、大人たちの愛憎劇がうごめいていました。アニメでここまで人間の醜さを表現していたからこそ、綺麗ごとでは済まない人間ドラマとしての厚みが出ていたのですが……。



 



映画シリーズで展開した“新エヴァ”は作品時間の制約もあったのだろうし、話をシンプルにわかりやすくするという意味では、ゲンドウとリツコの愛人関係が描かれなかったことは正解なのかもしれません。ですがそこを削ったことにより、“新エヴァ”でのリツコの存在感が希薄になり、清濁飲み込んだ重厚な人間ドラマというファクターも薄れてしまったのは否めないところ。



 



作品を短めの尺(時間)で納めなくてはいけないという事情があろうとも、個人的には1分でも30秒でもいいから、ゲンドウとリツコの愛人関係描写は挿入すべきだったと思います。

 


情報提供元: citrus
記事名:「 【新エヴァ】ゲンドウとリツコの大人の関係を絶対に描くべきだった理由