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タツノコプロの黎明期から現在まで、スタジオを見守ってきた笹川ひろし氏が、ささやきレポーターとなって当時の様子を伝えるこの連載。今回は『マッハGoGoGo』の企画成立時から、当時の制作の様子を語ってもらった。
タツノコプロのテレビシリーズ第1作「宇宙エース」が終盤にかかる頃、つぎの作品の企画が準備された。
社長の吉田竜夫がどうしてもアニメ化したかった作品で本格的カー(車)アクション・レースアニメ『マッハGoGoGo』だった。
これはアニメーターや演出陣が最も恐れていた企画だった。アニメでリアルなレースカー等は描けないという不安が多くそれが常識と思われた。アニメとは簡略と誇張とマンガチックに描くもので、「まんが映画」イコール「アニメ」だとスタッフ達は主張した。
だが、吉田社長はその言葉を突っ撥ねて、あくまでもリアル路線で製作することを宣言したのだ。「誰もやらなかったことをやろう」と。
と、言うことで、スタッフは地獄を味わうことになる。
社長は、自ら作監に力を注ぎ、昼夜原画の修正に全力で挑んだ。アニメーター達も、馴れないリアルなキャラクターに挑んだが予想どおりスケジュールが詰まって、会社外のアニメ会社へ多量の作画枚数を描いてもらわなければならなかった。
幸いなことに、依頼した会社の中に優秀なアニメーターがいて放送本数も、社内で制作する本数よりも多くなる時も増えていた。
ある日。・・・見学者の小学生がタツノコプロへやってきた。
社長は、小学生に色紙を描いて手渡した。喜ぶその小学生・・・、笑顔がちょっと変わった。
「あれ?剛(主人公)の顔がテレビと違う、にせもの?」と言ったとか。
小学生にとっては、原作者の描いたキャラクターよりも、多くの本数で観ている外注での主人公を、本物と思ってしまったのだろう。
まさか?といえる話だが、もう一つビックリな事があった。担当演出家が4名いたが、当時、一人も車の運転免許証を持っていなかったのだ。
「車のことを知らずに演出できたの?」「はい、やりました」
それが、奇想天外な自由な発想のカーレースの邪魔をしなかったのかもしれません」「そだねー」・・・演出家の人達は涼しい顔で答えた。
後にアメリカでも放送され、『スピードレーサー』として、超人気作品となった。吉田竜夫のリアル路線アニメは、確実に実ったのだ。
へー、そんなこともあるんだー、まさか・・・、と思えるささやきレポーターの驚きの話でした。
文・イラスト:ささやきレポーター(笹川ひろし)
『マッハGoGoGo』が誕生したのは1967年。テレビアニメ放送が本格化してわずか5年しか経っていない。ここで吉田竜夫は大きな挑戦をする。本格的カーアクションである。
当時のアニメのキャラクターやメカの絵は、動かしやすさを第一に考えて、いまよりシンプルだった。これを大胆な誇張で表現する。吉田竜夫の目指した“リアルな絵”とするのが難しいのは、ささやきレポーターの報告のとおり。しかしゼロからアニメづくりに挑んだ吉田竜夫であれば、それも乗り越えることは可能なハードルのひとつだったのだろう。
実際に『マッハGoGoGo』では、ハラハラドキドキする迫力のあるレースシーンが生まれている。同時代のアニメに多かった簡略化された絵に対抗するようなリアルさによって成立したのだ。さらにテンポのよい演出が重なって、タイトルに相応しいスピード感のある作品に仕上がった。
そんなリアルさは、メカだけでなくキャラクターにも生かされている。その後タツノコキャラクターの特徴として親しまれることになる、無国籍を感じさせるホリが深めのエキゾチックなキャラクターたちの原型も『マッハGoGoGo』に辿ることが出来るのだ。
後にアメリカでも放送され、『スピードレーサー』として、超人気作品となった。吉田竜夫のリアル路線アニメは、確実に実ったのだ
無国籍。これは多くのタツノコ作品に見られる特長だ。どこの国の誰が見ても、その舞台もキャラクターも親近感を持たれる。そのひとつの鍵となったのが、こうしたリアルな表現。これが日本だけでなく、海外でも『マッハGoGoGo』が人気を獲得する理由になった。
『マッハGoGoGo』は、60年代に早くもアメリカに輸出され放送された。これが現地の子どもたちの心を捉えた。その頃はアニメの生産国を視聴者に知らせることはしてなかった。すなわち、多くの子どもたちは『スピードレーサー』とタイトルされた作品が日本製と知ることなく熱中したのだ。
『スピードレーサー』の人気はここで終わらない。何度も再放送されたことで、60年代、70年代の多くの子どもたちの記憶に刻みこまれる。当時番組を見ていた子どもだったアメリカのウォシャウスキー姉妹は、成長して人気監督になるとアニメ『スピードレーサー』をもとに実写映画『スピードレーサー』を撮る。ハリウッド大作として、2008年にワーナー・ブラザース配給で世界公開される。優れた作品は時代を超えて何度でも蘇る。
海外で人気を獲得したのは、『スピードレーサー』だけでない。1970年代に輸出された『科学忍者隊ガッチャマン』もまた、多くのアメリカ人の記憶に残ることになった。
ガッチャマンは、世界征服を企む秘密結社ギャラクターと戦う科学忍者隊の活躍を描くSFアクション。『マッハGoGoGo』とジャンルは違うが、リアルさにアニメ的なギミックを加えたデザイン、国籍を感じさせないキャラクターたちは共通する。リアルさを打ち出すことで、逆に国境を越えた人気につながった。
テレビ放映は、アメリカでは一部内容を変更し『Battle of the Planets 』というタイトル名で放送された。いまでも『ガッチャマン』の名前は知らなくても、『Battle of the Planets』と言えば「あの番組!」と昔を思い出すアメリカ人は少なくないという。
昨今「アニメが海外で人気」「もっとアニメ作品を海外に広げよう」と言われることが増えている。しかし海外での日本アニメの人気は、多くの人が考えているよりもずっと古い。それは1960年代、70年代に辿ることになる。そのなかでもとりわけ輝き、大きな成功となったのがタツノコ作品だったのだ。
いまでは日本アニメの海外ビジネスもシステム化されてきた。どこの番組見本市に参加して、どんな作品を持っていき、誰と交渉するか……販売ルートのモデルもテンプレート化してきた。しかし最初の頃は、誰もそんなことは知らなかった。
そもそもどこに消費者がいるかでなく、ゼロから顧客を開拓しなければいけない時代だ。もちろん大きな失敗もあっただろう。しかしそうした努力があったからこそ、今の日本アニメの海外人気、海外ビジネスが存在する。およそ60年にわたるアニメ海外ビジネスの源流に『マッハGoGoGo』も『科学忍者隊ガッチャマン』が位置する。
今回は海外にまで広がったタツノコアニメとして『マッハGoGoGo』と『科学忍者隊ガッチャマン』を取り上げた。第6回もささやきレポーターが、当時の作品と共にスタジオの様子やエピソードを紹介する。こうご期待!
つづく
第二回:ついにアニメ制作。それは冷房もない社屋で始まった(1965年)
第三回:泊まり込み! 合宿形式の企画会議を敢行(1966年)
第四回:アニメ制作は極秘で進む! 偽名作戦が思わぬ展開に(1967年)
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