生成AIは写真をどう拡張するのか――森山大道作品から考える「複製される感性」
東京都と東京都歴史文化財団が推進する「TOKYOスマート・カルチャー・プロジェクト」の一環として、
展覧会「奈良女子大学 長谷研究室『複製される感性-森山大道』」が、東京都写真美術館にて9月5日(土)から開催されている。日本を代表する写真家・森山大道の作品を、工学を学ぶ学生たちが独自の視点で選定・再構築した本展。そのプレス内覧会の様子をレポートする。
デジタル技術で拡張する新たな鑑賞体験
本展は実物資料とデジタルアーカイブを組み合わせたハイブリッド展覧会であり、会場でのオフライン展示に加え、3D都市モデルを活用したオンライン展示も同時開催される。
展示作品は約140点に及ぶ。学生たちは東京都写真美術館が収蔵する膨大なコレクションから作品を選定し、テーマ設定から展示構成までのキュレーションに携わった。長谷教授は「森山氏の写真が次世代の感性にどう受け取られ、AIやデジタル技術を通じてどのような表現へと展開されるのか、その可能性を探った」と語り、最新技術が単なる道具ではなく、鑑賞者の身体性や記憶と結びつく「新しい写真体験」を創出する点に期待を寄せた。
学生の視点が生んだ独創的な展示作品
会場には、工学部生らしい論理的なアプローチと若い感性が融合した作品が並ぶ。
「Silhouette」は、アクリル三面を用いた半立体作品だ。制作した学生は、森山氏が撮る女性像を「社会批判ではなく、道に咲く花を愛でるような純粋な美しさ」と解釈した。苦しさ、強さ、煌めきといった異なる側面を持つ複数の写真を多層的に配置し、鑑賞者が正面から向き合った際に、それらが一つに溶け合った「多層的な美」を捉える構成となっている。
「残像」は、モノクロの桜の写真を青一色の壁面に展示した作品だ。制作した学生は、心理学の「補色残像」現象を森山の写真に利用。壁の青色に刺激を受けた鑑賞者の目の中に、モノクロ写真にはないはずの桜の「桃色」を浮かび上がらせる。人工的な着色を避け、見る人の脳内で色が生まれるリアリティを追求した実験的な試みである。
「継ぎ目」は、二着のシャツを一枚の長い布で繋ぎ合わせたインスタレーションだ。制作した学生は、被服制作の経験から「男もの・女もの」という境界の曖昧さに着目。男女という二元論ではなく、一つの地続きの「グラデーション」であることを表現した。人物の写っていない道やトンネル、猫などの写真を採用することで、服と風景が織りなす空間の広がりを強調している。
オリジナルは必要か?生成AIが拡張する解釈と複製
フランスの思想家ジャン・ボードリヤールは「シミュラークル」論において、複製が単にオリジナルを写す存在ではなく、やがて参照すべき原型を必要とせず、それ自体が現実性を帯びていく状態を論じた。今回展示された生成AIを利用した「The world of DAIDO MORIYAMA shown by AI」と「まだ見ぬ記録」は、そんなオリジナルと複製の関係を考えさせる作品だ。
前者では、森山の写真を生成AIで映像化。写真に写らなかった時間や空間を想像し、フレームの外側にあったかもしれない風景を生成している。展覧会資料では、4冊の写真集から7枚を選び、「見えなかった背景」の再構築を試みた作品と説明されている。
制作した学生は、森山が撮影した時代を「知らない場所、知らない景色ばかりだった」と語り、AIを使ってその時間や風景を感じてみたいと思ったという。さらに新作「まだ見ぬ記録」では、カメラを定点で構えたような構図によって、写真の前後に流れていたかもしれない時間そのものをAIによって生成した。「本当は記録はされてないし、こんなことがあったか分からない。けれど、こんな記録を生成した」と振り返る。
写真(複製)は現実(オリジナル)そのものではない。森山が肉眼で捉えた現実を、モノクロームの一瞬として切り取った時点ですでに一つの解釈が生まれている。その「現実の再解釈」である写真を、学生がさらに解釈し、AIが時間と空間を付け加える。複製されるほど現実から遠ざかる一方で、解釈はむしろ拡大していく。
ここでは、作者の存在も次第に後景へ退く。森山が実際にその先に何を見たのか、写真の外側に何があったのかは、作品の中では示されていない。学生が写真を読み、AIがその空白を生成し、さらに鑑賞者がそれを見る。作者が作品の意味を独占できなくなるという意味では、ロラン・バルトのいう「作者の死」にも通じる構造だ。そこに作者はいない。
さらに踏み込めば、解釈とは作品をそのまま保存する行為ではなく、ある意味では「破壊」なのかもしれない。写真を見るたび、鑑賞者はそこから意味を取り出し、自らの感性によって別の像へと組み替える。生成AIによる動画化は、従来は鑑賞者の内側で起きていたその破壊と再構築を、目に見える形にしたものとも捉えられる。
そして最も興味深いのは、その先である。制作者は「当時の時間や風景を感じたい」という欲求から制作を始めた。しかし生成された映像が成立するために、実際の撮影時の現実は必ずしも必要ではない。会場には元写真が展示されていない作品もあり、筆者自身もオリジナル(写真)を知らないままAI映像を先に見た。鑑賞者にとっては、複製された像こそが最初の体験となり得る。
ここで再びボードリヤールの議論が浮かび上がる。オリジナルが消滅するのではない。複製された像がそれ自体で成立することで、もはやオリジナルを参照する必要がなくなる。現実を切り取った森山の写真を学生が読み替え、さらにAIが、そこには存在しなかったかもしれない時間と空間を付け加えていく。その映像だけで鑑賞体験が完結するなら、撮影時の現実も、場合によっては元となった写真(オリジナル)さえも、その体験を成立させるための必須条件ではなくなる。これはまさに、オリジナルと複製の関係が揺らぎ、複製が自律していくボードリヤール的な状況と言えるだろう。
「複製される感性」というタイトルは、作品が複製されていくことだけを指すのではないのだろう。作品を見るたびに解釈し、破壊し、再構築する私たちの感性そのものが、作品を絶えず別のものへと作り替えていく。その連鎖の先で、ついにはオリジナルすら必要とされなくなる――本展は、生成AI時代における「見ること」の危うさまで映し出しているように感じられた。