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小学生の時から土曜日の朝の7時台は日本テレビを見ていた。というのも『おはよう!こどもショー』の素人参加のちびっ子のど自慢に毎週のように観覧に行っていて、番組で何度か歌ったことのある番組だったので、この時間帯の番組に対する思い入れは、かなり強かった。『おはよう!こどもショー』が終了(1980年9月)しても習慣でこの時間は日本テレビを見るようになっていた。そこで始まったのが『モーニングサラダ』である。西城秀樹が司会で、マスコットガールとして伊藤つかさがレギュラー出演していたので、伊藤目当てで見ていたところもあったが、その伊藤が降板することになった。伊藤の後にレギュラーのマスコットガールになったのが、岡本舞子である。初々しくてカワイイ女の子で、次第に番組内容以上に岡本を見ることがメインになっていった。
そんな岡本が1984年に歌手デビューすることになった。84年デビューといえば、岡田有希子・菊池桃子・吉川晃司・荻野目洋子・長山洋子などがいる。アイドル激戦の年になったが、各局の音楽祭で新人賞にノミネートされ、メディアの露出度も増えてきた。惜しくも新人賞獲得には至らなかったが、レコードデビュー前から注目していた子だったこともあり、ずっと見て行きたいという気持ちになっていった。
音楽祭などで何度か岡本を観ていたのだが、実際にこの時はまだ会ったこともなく、話したこともない。ようやく岡本と会えたのは、85年の8月だった。3曲目のシングル『ファンレター』の発売直後である。TBSホールでのラジオ公開収録があって、多くのゲストが出演していたが、この時はピンポイントで岡本の出待ちをすることにした。この日は真夏の暑い時だったので、汗だくになりながら待っていた。数十分後に岡本が会場から出て来るのだが、ステージで観るイメージとちょっと違って、クラスにいるカワイイ女の子という感じだった。
実は以前に岡本にファンレターを出したことがあり、偶然であるが、この直前に発売されたシングルのタイトルが『ファンレター』ということに驚いた。初対面だったが、以前にファンレターを出したことがあると話すと「あー読みました。ありがとうございます」と答えてくれた。郵送として返事は返って来なかったが、実際に目の前で会って返事をしてくれたので、この瞬間は嬉しさのあまりニヤニヤしていたのを今でも思い出してしまう。その後2ショット写真も撮って、サインももらえたので、本当に満足して帰宅することができた。
以降も岡本が出演する公開番組などに足を運ぶようになったが、正直言うと人気もイマイチだった。次第に出演する場も少なくなってしまい、87年1月に発売された7枚目のシングル『さよならペガサス』を最後にシングル発売が終わってしまった。事実上ラストとなったシングルは、87年7月に公開された岡本の主演映画『舞妓物語』の主題歌となったが、この映画を最後に芸能界を引退。シングルデビューするまでの芸能活動をやっていた期間はあったが、アイドル歌手としては、約2年半という短い期間で引退してしまったのは、ファンにとっては非常に残念である。シングルの発売は合計7枚で、オリコン最高順位だったのは、6枚目のシングル『ナツオの恋人ナツコ』の40位なので、競争社会の中では仕方ないことかもしれない。でも引退直前に映画の主演もこなしたので、アイドル歌手から女優へとシフトするという考えは無かったのだろうか? この引退は本当に残念である。
引退してから表舞台に出ることは一切ない岡本だが、2004年に『岡本舞子コレクション』というベストアルバムが発売されていて、当時の音源がすべてCD化されたことで、ファンだった人はもちろんだが、アイドル歌謡好きの人にも目に止まり、岡本の愛した音楽は今でも私の心の中では、生き続けている。現在は45歳になって一児の母になっているそうだが、きっと幸せな人生を送っていることだろう。
(ブレーメン大島=毎週土曜日に掲載)
【ブレーメン大島】小学生の頃からアイドル現場に通い、高校時代は『夕やけニャンニャン』に素人ながらレギュラーで出演。同番組の「夕ニャン大相撲」では元レスリング部のテクニックを駆使して、暴れまわった。高校卒業後は芸人、プロレスのリングアナウンサー、放送作家として活動。現在は「プロのアイドルヲタク」としてアイドルをメインに取材するほか、かつて広島カープの応援団にも所属していたほどの熱狂的ファンとしての顔や、自称日本で唯一の盆踊りヲタとしての顔を持つことから、全国を飛び回る生活を送っている。最近、気になるアイドルはNMB48の三田麻央。
【記事提供:リアルライブ】