壁に掛けられた北極圏の地図を背に話す和泉雅子(撮影・丹羽敏通)

<悼む>

日本人女性で初めて北極点到達を遂げた冒険家で俳優の和泉雅子(いずみ・まさこ)さんが、9日に都内の自宅で亡くなったことが18日、分かった。77歳だった。

和泉さんは、東京・銀座生まれ。1961年(昭36)に日活入り。63年映画「非行少女」に主演し、はモスクワ国際映画祭で金賞を受賞した。「エデンの海」「絶唱」などで地位を確立し、吉永小百合、松原智恵子とともに「日活三人娘」と呼ばれ、多くの青春映画で活躍した。

また、歌手としても、山内賢さんとのデュエット曲「二人の銀座」が大ヒット。一方で、子供のころから冒険へのあこがれがあり、80年代半ばから北極挑戦を試み、89年に2回目の挑戦で日本人女性として初めて北極点到達に成功した。

   ◇   ◇   ◇

演劇担当記者だった私が、北極点を目指す和泉雅子さんの担当になった。理由は、私が北海道出身だったから。最初は気乗りしなかったけれど、和泉さんの北極点にかける熱い思いに感化され、応援団になった。1985年の最初の挑戦の時もカナダ・レゾリュートにあるベースキャンプと随時連絡を取って、62日目に断念するまで連載を書いた。和泉さんを成田空港で出迎えた時、気落ちしているかなという心配は杞憂(きゆう)だった。会うなり、「また行くから。その時も連載してね」と笑顔で言われた。顔には紫外線によるシミがいっぱいだったけれど、北極と真正面から闘った勲章だった。最初の遠征で抱えた1億円を超える借金は3年間、150回の講演で完済し、89年の2度目の遠征の資金もためた。出発から62日目の5月10日、あこがれの「地球のてっぺん」に立った。日の丸を手に、唯一の持ち歌だった「涙の連絡船」を大声で歌った。到達したら、やりたいことの1つだった。

北極点に立った後も、50回ほど北極に出かけた。第2の故郷だった。日本でも、北海道・士別市にログハウスの別荘を建て、東京との二重生活を送った。ボランティア活動で「寒いのへっちゃら隊」を結成し、子供たちから「まこばあば」と慕われた。顔のシミが残ったこともあって、俳優の仕事から遠ざかったけれど、後悔はなかった。「夢は夢で終わる人は多いけれど、私は北極点に立つという夢を叶えたから」。潔い人だった。【林尚之】

情報提供元: 日刊スポーツ_芸能
記事名:「 【悼む】和泉雅子さん死去 顔のシミは北極と真っ正面から戦った勲章 俳優業から遠ざかるも潔く