トイレ問題、謎のお茶、枝から電話器…現場よもやま話から振り返る「地下鉄サリン事件」30年
地下鉄サリン事件があす20日、30年の節目を迎える。事件当日の営団地下鉄(現・東京メトロ)本社から、その後の強制捜査、教祖麻原彰晃逮捕、一連のオウム裁判ラッシュまで、あらゆる現場を取材した。まだウインドウズ95も発売前だったアナログ時代に起きた歴史的大事件。取材現場のよもやま話でも、当時のリアルをお伝えできることがあるのではと願い、メモしてみた。
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【第一報は「爆発物」】
事件当日、情報の前線基地となったのが上野の営団地下鉄(現・東京メトロ)本社だった。1階ロビーに即席のプレスエリアができ、続々と配られる資料は営団のオフィシャル用紙にすべて手書き。大量の配布物は今も手元にあるが、まちまちな筆跡が明らかに急いでいて、職員が手分けして書いている緊迫感がにじむ。配られた「第1号」資料は「本日8゜14築地駅に停車中の北千住駅発中目黒行A720S列車内で爆発物が破裂したのをはじめ、」とあり、まだサリンではなく「爆発物」という情報だったことが分かる。
【スポーツ紙の一面から野球が消える】
一連のオウム事件は、教祖以下、教団関係者から実行犯まで主要人物だけで30人くらいいた。日々分かってくる事件概要、日々誰かが逮捕、荒唐無稽な教義の数々、幹部のワイドショー出演など日々の動きが山ほどあり、新聞の一面はどの社も日々オウム。日刊スポーツも連日11ページ体制で報じていた。地下鉄サリン事件の3月20日から6月末まで、ニッカンの一面が野球だったのは「開幕戦」「ドジャース野茂英雄完封デビュー」「中日高木監督辞意」など6回のみ。
【張り込み装備がリッチなNHK】
教団幹部の出入りや不定期の会見がある南青山の東京総本部前は、信者が退去するまでの約1年間にわたりマスコミの張り込み拠点となっていた。長引く張り込み現場では自然と各社の定位置のような秩序が生まれるもので、ニッカンの隣はNHKだった。脚立1個で場所とりしている各社と違い、NHKはパラソル付き簡易テーブルといす数個という豪華版。真夏は巨大クーラーボックスも持ち込み、大量のかち割り氷も。教団に動きがあるとその場を離れる必要があり、「受信料が溶けていく」と話題に。
【トイレ問題、マスコミの恩人は「島根イン青山」】
南青山総本部前では、各社とも当初は近くのローソンでお茶など買い足しながらトイレをお借りしていたが、やはり申し訳ないというのが共通の悩みだった。1個だけで常に混雑し、テレビ局の女性社員がドアを開けられて悲鳴、という気の毒な話もあった。そんな時、総本部から100メートルくらい離れたところにニッカンが「島根イン青山」(当時)を発見。県営宿泊施設で、出入り口のすぐ横がトイレ。一般紙の皆さんと掛け合ったところ快く了承してくれて、警察の方々も利用していた。島根の人の優しさに救われました。
【独特だった総本部のにおい】
特に予告もなく行われる教団の会見は、主に総本部の上階で行われた。信者の居住スペースでもあるため土足厳禁で、会見の時はくつを脱いで入る。教団広報も「信者は基本的に風呂に入らないので生活臭も独特」と認める独特のにおいが充満し、夏場は報道陣の足のにおいもごちゃまぜ。我慢できずに途中退出する人もいた。
【甘すぎる「サットヴァ・レモン」】
教団が山梨県上九一色村(当時)の施設を公開した際、同僚の男性記者が信者から教団ドリンク「サットヴァ・レモン」の袋をもらってきた。教祖のエネルギーを電磁波にして混入したスポーツドリンクとのことで、91年から教団が日常的に飲んでいた。オウム取材班全員で味見してみたが、激甘で驚いた。飲み物といえば、幹部の取材スペースとなっていた南青山総本部地下の喫茶スペースのお茶も有名だった。紅茶のような味がする真っ黒な液体。おかわりした某紙の猛者が話題に。
【職質で知る徹底捜査】
強制捜査の直後、法務局で教団施設の登記を調べていたところ、男性2人組が隣に。「お先にどうぞ」と地図を譲ると「後でいいです」。調べ終えて外に出ると警察手帳を提示され、「何を調べていたんですか」と職質されて驚いた。社員証を見せ、取材意図を説明して終わったが、こんなところにまで捜査員を配置している当時のオウム捜査の徹底ぶりと、現場刑事の熱心な仕事ぶりを目の当たりに。
【無秩序な現場】
95年4月23日午後、南青山総本部前。サリン製造のキーマンとされた教団幹部が帰ってくるとの情報があり、100人くらいの報道陣が玄関前にごった返していた。小雨で風が強く、多くの記者が細く傘をさしている中、輪の最前列に、傘もささず玄関をじっと見ている男がいた。交代要員が来たので社に戻ったが、夜になって戻ってきた幹部をその男が刺し、逮捕された。スマホもSNSもない時代にいわゆる“やじ馬”が日々数十人単位で現場に混在し、刃渡り21センチの包丁を隠し持つ男が紛れ込んでいても分からないほど無秩序な現場だった。
【枝から臨時電話】
携帯電話がまだ手のひらサイズでなく、圏外地域も多くあった時代。関連現場となった長野県の林もそのひとつで、報道各社は林の中に臨時電話(臨電)を引いていた。NTTから指定された日刊スポーツの臨電設置場所は「現場入り口から黒部ダムの方向へ50メートル進んだ杉の木」。現場に行った記者によると、電話の入ったビニール袋が本当に枝からぶら下がっていて、そんな臨電が報道各社で15個くらいあったという。教団施設があった上九一色村も圏外。徒歩で往復30分ほどの農協の公衆電話までみんな歩いていた。
【メディアの垣根が吹っ飛んだ麻原初公判】
96年4月24日、48席の傍聴席に1万2292人が並んだ世紀の初公判に運良く入ることができた。本人の意見陳述は「つまりカルナ」「つまりウペクシャー」など、弁護団も理解できない専門用語ばかり。メモが追いつかず、ペンを持つ手が震えた。公判が終わると、どの記者も頭真っ白状態。一般紙、スポーツ紙、雑誌社などあらゆる記者たちが廊下で輪になって「あのくだり聞き取れました?」「メモできた人いますか」と、面識のない記者同士がなりふり構わぬ“読み合わせ”。結局誰もよく分からず、裁判所の速記者が起こした全文の到着を待つしかなかった。
【法廷画家、傍聴席でまさかの鉛筆けずり】
幹部被告の裁判で、静かな法廷に「シュッ、シュッ」という音。年配の法廷画家がヒザの上にティッシュを広げ、小刀で鉛筆を削っていた。法廷に刃物は厳禁。特にオウム裁判では金属探知機とボディーチェックによる厳重な持ち物検査が行われ、時にはボールペンまで分解されるほどチェックが厳しかっただけに、まさかの展開に法廷中が苦笑い。筆記具と小刀を輪ゴムでまとめただけの軽装備すぎて、なぜか通れてしまったようだ。もちろん悪意はなく、刑務官によって丁重に退出となった。
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日刊スポーツは最も大きな被害が出た日比谷線築地駅にあり、社に戻ると、「A720S列車」で出勤していた社員が複数いて、体調不良を訴えていた。近くの聖路加国際病院は文字通りの野戦病院状態。600人以上の搬送者をすべて受け入れ、ロビーや廊下にあふれる患者を必死に救命したスキルと奮闘は、緊急時における医療界の手本となり、今も受け継がれている。尊い奮闘を「救え命を」の大見出しで伝えた本紙紙面を壁に貼り、励みにしてくれたというのが救いだった。
【梅田恵子】(ニッカンスポーツ・コム/芸能記者コラム「梅ちゃんねる」)