石井裕也監督、この10年で映画を通して投げかけてきた日本への違和感と見過ごされてきた人の心
<最新作「本心」公開…石井裕也監督が語る人間とAI>最終回
石井裕也監督(41)が、公開中の最新作「本心」で、ますます日常生活に浸透するAIの持つ危うさを世の中に問いかけた。亡くなった母の本心を知りたくて、仮想空間上にAIで母を作った主人公を池松壮亮(34)が演じる。「不確かな人間の記憶より、全ての情報をディープラーニングしたAIが優れているという人が大勢になった時、人間の立場、尊厳が脅かされ、毀損(きそん)される」と指摘。「そのことへの対策、準備は特に日本人にはできていないと思います」と警鐘を鳴らした。最終回は、石井監督がここ10年、映画を通じて投げかけてきた思いと「本心」を今、公開する意味について。
石井監督が映画を通じて世の中、社会に対し、人間とは何か? という問いかけを投げかけ始めたのは、2010年代半ばに感じた危機感が根底にある。
「2011年(平23)に東日本大震災が発生した後、2010年代半ばあたりの頃、僕は日本の転換点だと感じていました。かなりヤバいと、危機感を覚えていて…。それまでは、年齢的なものもあったかも知れないですけど、人の内面的なもの…隠す、隠さない、潜ませる、潜ませないという感情に興味があったんですけど。それが、映画の枠組みとして外側に向いた…時代に感じた危機感が、向かせてくれたのかも知れません」
池松が石橋静河(30)とダブル主演した17年5月公開の「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」では、東日本大震災以降の閉塞(へいそく)感のある東京を舞台に、言葉にならない不安と孤独を抱え、居場所を失った看護師と日雇い労働者が出会い、希望を見いだしていく姿を描いた。
池松に「本心」の映画化を持ちかけられた、およそ4カ月前の2020年(令2)8月には、翌21年5月公開の映画「茜色に焼かれる」の撮影を行っていた。尾野真千子(43)演じる田中良子(尾野)が、理不尽な交通事故で夫陽一(オダギリジョー)を亡くしながら賠償金は受け取らず、ひとりで中学生の息子純平(和田庵)を育てる中、コロナ禍で経営していたカフェが破綻。花屋のバイトと夜の仕事の掛け持ちでも家計は苦しい中、社会的弱者として世の中のゆがみに翻弄(ほんろう)されながらも信念を貫き、たくましく生きる物語だった。
同作でも描いたコロナ禍と、AIの普及、促進のタイミングがハマったと考えている。その思いも「本心」の映画化に心が傾いた一因となっているだろう。
「コロナがAIの発展と、みごとにぶつかりましたよね…良くも悪くも。(コロナ禍は今も)全く回復していない。しかも、コロナは目に見えなかったわけで…。人間の心に巣くっているという意味で、本当のコロナショックのようなものは、これからだと考えています。うちには、6歳の子どもがいますけど、彼は2、3歳の頃がコロナ禍のピークでした。その頃、高校3年間、ずっとマスクだった人もいれば、いわゆる情操教育が必要だった小学生時代に、人の顔が見られない状況で、いじめのようなことをされた人もいるだろうし、いじめだと思っていなくても顔が隠れているのをいいことに、やりすぎた人もいるかもしれない。そういう、すさみが多分、これから出てくる」
23年10月に「月」を公開した後も、コロナ禍ですさんだ人間の内面に巣くったコロナショックが後々、表層に現れると懸念していた。その頃、最も興味、関心があるテーマは「死」だと明かし「全員、死ぬじゃないですか? でも皆、死ぬことを今は忘れようとして、何とか暮らそうとする。でも、いずれ確実にやってくる。そのことを、もう1歩、踏み込んで考えられないか」と口にしていたが、その言葉通り「本心」では人間の死とも向き合った。今だからこそ、公開する意味があると考えている。
「AIの発展、浸透の危うさを、言いづらい雰囲気に世の中が覆われていることが、すごく怖くて。人類の歴史的においても、ナチスや日本の軍国主義もそうだったんでしょうけど、仕方ないと言いながら何の精査、準備もせずに受け入れることによって、想像を超えた大きな問題になり得るんじゃないかと、僕は思っています。誇張でも何でもなく、皆で考えなければいけないテーマでは、確実にあるから。誰か一部の人に届けたい…とかということじゃないですかね」
映画監督・石井裕也は「本心」の公開後も、世の中を見つめ続けている。人間の心、存在、その本質とは何かを自らの内にも問いかけながら、見過ごされていること、見ないようにしていることを、映画というエンターテインメントの形にして、世の中にも投げかける。その歩みに一片のブレもない。(おわり)【村上幸将】