中村勘九郎、父勘三郎さん以来13年ぶり鹿児島硫黄島で「俊寛」上演「中村屋スピリッツで一丸」
歌舞伎俳優中村勘九郎(42)が22日、鹿児島県三島村・硫黄島で「三島村歌舞伎」を開催し、「俊寛」を上演した。
96年、11年に父で18代目中村勘三郎さんが「俊寛」を上演して以来、13年ぶり3度目。勘九郎は、俊寛を初役で演じ、弟中村七之助、長男中村勘太郎、中村鶴松、片岡亀蔵らとともに、自然環境を最大限に生かした舞台で、約500人の観客を魅了した。
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俊寛は源平の時代に政争に敗れ、硫黄島に流されたとされる。悲劇の人物の伝説の地で、浜に特設舞台を設け、赦免船に仕立てた船を実際に動かした。絶壁と海が、物語の風景そのままになる。
舞台環境と相まって、島に残ることになった俊寛の悲痛さが一層際立った。船を見送るため砂浜に走り出て「おーい、おーい」と叫ぶ声が響く。絶望や望郷の思いが交じった迫真の表情に大きな拍手が起こった。
カーテンコールで勘九郎は「今日できたことは奇跡でございます」とした。当初、前日21日に硫黄島入りし、稽古や最終チェックを行う予定だった。荒天で鹿児島港からのフェリーが欠航し、開演5時間半前に到着した。到着後すぐ、俊寛の居住地跡にある俊寛堂をお参りし、稽古、本番へ突入した。不安定だった空に、本番では星が広がった。勘九郎は「父の時はずっとそうなんです。直前まで雨が降ったりして、その時だけ晴れる。見守ってくれたと思います」と、父で18代目勘三郎さんをしのんだ。
前回11年の公演時に勘三郎さんは、生まれたばかりの孫の七緒八君(現在の勘太郎)との「俊寛」共演を願った。実現できなかったが、13歳の勘太郎は丹波少将を立派に演じた。勘九郎は「約束通り彼を連れてこられた」とほっとしつつ、「(次男)長三郎がやいてね。僕はじじちゃまも知らないし、『俊寛』にも出られないと。願わくは、彼を連れてまた来たい」と再演を誓った。公演前には「長生きして3回はやりたい」と意欲的に語っていた。
俊寛は祖父の17代目勘三郎さん、父が大事に演じてきた。この日は祖父の着物に丈を足し、父が使っていた小道具のつえを使用し力にした。初役だが、硫黄島公演には過去2回とも出演しており、父の俊寛はしっかり残っている。勘九郎は「取り残される側となって海を見られることは、今度劇場でやる時に大きいです」と期待する。
2月から1年を通して行ってきた父の十三回忌追善興行を、この日で締めくくった。勘九郎は「十三回忌を1年間できるのは、やっぱり勘三郎という役者はすごい役者だったんだと思います。中村屋スピリッツで一丸となったからこそ」と言えば、七之助も「充実した1年でした。父の舞台を見たことがない人が、僕たちの肉体を通して父を見て、歌舞伎を好きになってくださる。子供としてはとてもうれしく、僕たちも一生懸命やってきた結果」と語った。【小林千穂】
◆俊寛(しゅんかん) 生年未詳で平安後期の真言宗の僧。源氏の末裔(まつえい)で、後白河法皇の側近。1177年(安元3)、鹿ケ谷の山荘で平氏打倒をはかった秘密会議が露見し、現硫黄島(鹿児島)とされる鬼界ケ島に配流された(鹿ケ谷の陰謀)。平家物語によれば、1179年(治承3)に同島で亡くなったという。
○…公演のために鹿児島港発着のフェリー日帰りのツアーが組まれ、300席が発売開始5分で完売した。待望の再演だったことが分かる。200席は地元観客らで埋まった。硫黄島での「俊寛」上演のきっかけは、95年に俊寛像が建立されたこと。当時勘九郎と名乗っていた勘三郎さんが「俊寛」上演を熱望し、96年5月に実現した。11年10月に再演した時、カーテンコールで勘三郎さんは「15年後、71歳になりますが、15歳になる孫の七緒八と一緒にここで演じたい」と話していた。
◆硫黄島(いおうじま) 鹿児島県三島村を構成している3つの島の1つで、人口約120人。鹿児島港から村営フェリーで約3時間55分の場所にある。周囲19・1キロで、活火山の硫黄岳を有する。波が打ち寄せる東温泉や、カップルが結ばれるという恋人岬などが名所。三島村全体で畜産業が盛んで、硫黄島では約160頭の牛が飼育されている。