17年9月、取材中も笑顔を絶やさない桂米丸さん

落語家の桂米丸さんが亡くなった。99歳だった。新作落語の人気者として、テレビにもよく出ていた。ちょっと甲高い声の軽妙な語り口は、多くの人に親しまれた。1977年から99年まで23年間も落語芸術協会の会長を務めた米丸さんの取材は何回もしていたけれど、最後は7年前、92歳の時だった。

取材したのは新宿の末廣亭近くの喫茶店。末廣亭の高座がある時はよく立ち寄る店とあって、席もお決まりだった。その時の服装はスーツに小粋な帽子をかぶり、ネクタイはピンク色で、それがよく似合っていた。脇に抱えたセカンドバッグは、ルイ・ヴィトンの新作だった。新宿伊勢丹がお気に入りで、その時に着ていたスーツも伊勢丹で仕立てたものだった。いくら年を重ねても、おしゃれには人一倍こだわっていた。

食事の話になったけれど、10日に1度は行きつけのステーキ店でサーロインステーキを食べるという。「5000円出せば、おつりがくるんですよ。よく行くからサービスもしてくれる」とご機嫌に話してくれた。

おとこ気のある人だった。「笑点」の司会も務めた桂歌丸さんは古今亭今輔さんに入門したが、若手の待遇改善を求めて先頭に立った関係もあって、破門状態となり、落語界を離れて職を転々とした時期があった。その後、落語界に復帰を果たしたが、今輔さんではなく、同じ今輔門下の兄弟子だった米丸さんの門下に入った。その時に米丸さんは寄席の初日と中日には必ず今輔さんの家に顔を出すことを言いつけた。その言葉に従ったおかげで、かつての師匠との関係も修復していった。

都内の定席は落語協会と落語芸術協会が持ち回りで興行を行っていたが、1984年に鈴本演芸場は客の入りが悪かった落語芸術協会に対して、落語協会との合同での番組編成を求めた。会長だった米丸さんは猛反発し、84年9月以降、鈴本演芸場から撤退した。それだけではなく、鈴本と100メートルほど離れたスーパーマーケット「吉池」の7階のスペースで落語会を始めた。当初は定席を予定したが、法的な問題もあって、週1回だけ落語会を開催し、12年ほど続いた。それは鈴本演芸場への意地だった。温厚なイメージのある米丸さんの違った一面を垣間見た出来事だった。【林尚之】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「舞台雑話」)

情報提供元: 日刊スポーツ_芸能
記事名:「 おとこ気ある人だった桂米丸さん 温厚なイメージとは違った一面を垣間見た出来事