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東京在住のスケーター、インラインスケーター、BMXライダーなら知らない者はいないスケートパークがある。
足立区千住関屋町のアメージングスクエア内に位置するムラサキパーク東京。
大会で活躍するスケーターにとっては聖地のような場所であり、東京五輪金メダリストの堀米雄斗や、同じく東京五輪出場の西村碧莉など多くのスケーターを輩出した事でも有名なパークだ。
BMXライダーにいたっては、わざわざ地方からこのパークを目指し上京してくると聞く。
そんなアーバンスポーツの聖地、ムラサキパーク東京が2023年5月7日で閉店となる。
理由は土地の再開発地域だからだ。
ムラサキパーク東京がある複合施設、アメージングスクエアは1987年に、元々は遊園地として歴史をスタートさせ、その後様々な変化を見せ現在に至っている。
スケートパークとしては1996年7月にアメージングスクエア内で運営がスタート。
その後キノウチサイクルへと運営が変わり、2009年よりムラサキスポーツが運営をしている。
ムラサキスポーツに変わってからは、最初はMAP'S TOKYOという名称でスタートし、2014年からはムラサキパーク東京という名称に変更。
スケートボードを嗜む筆者の実家から近い事もあり、こちらのスケートパークにはキノウチサイクル時代から本当に長い間お世話になった。
ローカルスケーターからは過去には“アメージング”現在は“ムラパー”と呼ばれて親しまれ、東京都内ではめずらしいバーチカルを始めとした多様なセクションが設置され、室内パークも完備された歴史あるこちらのスケートパークは、これまで多くのプロスケーターを輩出してきた。
現在はスケートパークに加え、フットサル場、釣り堀、バッティングセンター、ゴーカート場、日本交通のタクシー営業所になっているが、足立区の地区環境整備計画を見る限り、この場所は再開発地域となり、今後は中高層建造物を誘致し、複合市街地へと変貌を遂げてしまうようだ。
参照:足立区・地区別の環境整備計画
(参考:https://www.city.adachi.tokyo.jp/toshi/machi/toshi/h14-tikukankyouseibikeikaku.html)
(参考:https://www.city.adachi.tokyo.jp/documents/30734/tikukan3-1.pdf)
そんなアメージングスクエア内にある、ムラサキパーク東京の閉鎖に並々ならぬ思いを抱くスケーターがいる。
伊藤知佳“ChiKa”。
アメージングスクエア時代からのローカルスケーターである彼女はスケーターと言ってもスケートボードではなく、ローラースケーターだ。現在ムラサキパーク東京で働くスタッフ、ローカルスケーター全員を集めても彼女以上にアメージングスクエアと深く長く関わった人はそうはいないだろう。
彼女の目を通して、伝説のスケートパーク“アメージング”“ムラパー”への思いに迫ってみた。
Photo by 渡部憲之
【ChiKa(伊藤 知佳)プロフィール】
ROLLER&INLINE SKATE DANCE TEAM「KZ CREW」
ローラースケートでダンスパフォーマンスをする国内で唯一のプロチーム「KZ CREW(ケーズクルー)」で2023年現在リーダーを務める
AOHA / amane / Rioの女性4人チーム
アーティストMVやTV、CM、映画、舞台、MV、LIVE出演から、イベント出演など幅広く活動。
WORLD ROLLERDANCE convention in上海では4位の成績と最多人気賞を受賞。
2021年には国内老舗ローラースケートメーカーからシグネチャーモデル"Lip C Lip"販売される。
国内最大級のローラースケートリンク"Tokyo Dome ROLLERxSKATE ARENA"を拠点としレッスンなども行なっている。
ムラサキパーク東京(旧MAP'S TOKYO)では様々なスケートボードのコンテストが行われ、日本のスケートボードシーンに多大な貢献をしている。
近年では、東京オリンピックでスケートボードが競技として採用されてから初の日本選手権が行われた会場と説明すると、いかに日本を代表するスケートパークだったかがわかるだろう。
2017年4月に行われた第1回日本スケートボード選手権の時の写真。この時はストリート種目しかなかったが、のちに東京五輪パーク種目金メダリストの四十住さくら選手が準優勝で写っている。
駐車場入り口に今も存在する看板。当時のマスコットキャラであるマイティーアメットが描かれている
・1987年(昭和62年)10月10日、足立区千住関屋町にアメージングスクエア(遊園地)オープン。
・1995年(平成7年)3月4日にアメージングスクエア内に都内初のバンジージャンプができる。
・1996年(平成8年)7月27日、28日にスケートパークのオープニングイベントとしてインラインスケートの大会、OXYGEN CUP(オキシゲンカップ)が行われる。
ちなみに、スケートパークができた場所はアメージングスクエア内のバンジージャンプの跡地であることから、バンジージャンプは1年ほどしか稼働していなかったことになる。
名称はYOMI(ヨミ)スケートパークとなっているが、実際にローカルスケーター達からは「アメージング」や「アメ」と呼ばれていて、当時の関係者によるとYOMIスケートパークという名称の認識はあったが、実際に当時の雑誌などを見ると、初期の頃はアメージングスクエアスケートパークという表記で掲載されている。
これはパーク始めたての頃は、アメージングスクエア内のアトラクションエリアの一部のような感覚でパーク運営が始まっていたからとのこと。
・キノウチサイクルでの運営を経て、2009年(平成21年)現在のムラサキスポーツに運営が変わる。
この時のパーク名称はMAP'S TOKYO(マップス東京)
・2014年(平成26年)に関東最大級の室内スケートパークが完成。名称もムラサキパーク東京に変わる。
・2023年(令和5年)5月7日の営業を最後にムラサキパーク東京は閉店となる。
同年7月中旬に立川市立飛に新パーク、ムラサキパーク立川立飛がオープン予定。
YOMIスケートパーク。当時を知る情報として以下があった。
『新型レジャー施設「アメージングスクエア」は、昭和六一年一月に閉鎖した同社千住工場跡地(東京都足立区千住関屋町一九-一)約一万坪を利用して建設された。オープンは六二年一〇月一〇日…』
参照:月間レジャー産業241号P191より
『アメージング(株)は、スポーツ・レジャー施設およびレストランの運営を主要営業種目とし、六二年六月から「アメージングスクエア」の着工にとりかかり、同年一〇月九日竣工式、翌一〇日オープンを迎えた。総事業費は二〇億円である。』
参照:月間レジャー産業241号P192より
1996年(平成8年)7月にアメージングスクエア内にできた、YOMIスケートパーク時代から変わらずこの場所で滑り続けているスケーターの代表といえば、ローラースケーターのチカちゃんだと言えば、誰もが納得するだろう。
そこで、この伝説のスケートパークと一緒に歩んできた彼女のインタビューを通して、パークの足跡をたどってみたいと思う。
「私がスケートを始めたきっかけは子供の頃、千葉県松戸市にサニーランドというアミューズメント施設があって、そこにJOY PARKというローラースケートリンクがあったので友達とよく遊びに行ってたんです。
そこにはRollerblade JAPANというインラインスケートのパフォーマンスチームがあって、小学4年生くらいの時、そこに所属していた当時12歳の最年少メンバーでめちゃくちゃ上手かった“ERI”って子が声をかけてくれて、そこから私もチームの練習生みたいな感じで本格的に滑り始めたんです。
その後、1995年(平成7年)に子供だけで構成されたJrチーム、MIT(ミット)の一員として活動を始めました」
MIT時代アメージングスクエア内のステージで行われた“DREAM COUNT DOWN”での写真。右から2番目がChiKa
「当時、FLIP UPというタレント事務所が開催していたアイドルオーディションが、遊園地時代のアメージングスクエア中央にあった噴水裏のステージで開催されていて、MITメンバーは事務所の先輩アイドルの曲をカバーし、歌いながらスケートでパフォーマンスするというオーディションの前座をやっていました。
ちなみに初めてのアメージングスクエアの思い出は、祖父母が葛飾区四つ木に住んでいたので親戚と遊びに行った時かな。
その時は入ってすぐの所にバンジージャンプがあって、大迷路と船が宙を回る乗り物(スーパートマホーク)に乗った思い出があります。
オーディション前座の営業で行った時は、バンジージャンプがあった場所がスケートパーク(YOMIスケートパーク)になっている事に気付き、その空間に衝撃を受けました。
後から聞いた話しですが、パンジージャンプが無くなってからウチダさんというパークビルダーの方が入ってパークを作り、OXYGEN(オキシゲン) カップというインラインスケートの大会の開催と同時にアメージングスクエアにスケートパークがオープンしたみたいです」
貴重な当時のバンジージャンプの写真。
「そしてオーディション前座営業で、アメージングスクエアへ出入りしだしたのをきっかけに、YOMIスケートパークのスタッフだった、ブラジル人スケーターのバタタや、スケートパークの管理と園内にスケートショップRebootを出店していた栗田さんとも出会いました。
栗田さんは、今となってはムラサキスポーツの大先輩でもありますが、アメージングスクエア(YOMI)スケートパークの後、ムラサキスポーツに運営が変わってからMAP’S TOKYO (マップス東京、2009年~)の店長も勤めてらっしゃいました。
ちなみに栗田さんから聞いたんですが、YOMIスケートパークの名前の由来は“黄泉の国”から来ているらしいです(笑)
その後、1996年にサニーランドのローラースケートリンクJOY PARKの閉店と同時にMITの活動も終わり、行き場を無くし当時は絶望感でいっぱいだったのですが、アメージングスクエアで開催していたインラインスケートの大会、リブートカップを観に行ったりする事で友達も出来て、徐々にアメージングスクエアで滑るようになりました」
中学生頃の写真(左)ERI (右)ChiKa
「当時のアメージングスクエアは正直に言えば、入りづらいローカル感満載の場所だったけど、サニーランドのスケートスタイルや空気感とは全然違ったカルチャーがそこにはあって、すごく刺激的でした。
大きなランプやセクション、そしてパークの雰囲気にも超ビビっていたけど、ERIや同世代のキッズが一緒にいてくれたし、イカついお兄さんも優しく教えてくれたりと…気がつけば学校終わると急いで支度し、ウキウキで“アメ”に向かっていました。
スケート始めた頃は“インラインスケートの中心はサニーランドにある!”と思っていたし、本当に子供だったのもあって、サニーランドでのコミュニティしか知らなかった自分にとって、“アメ”での経験はかなりのカルチャーショックでした。
スケートはもちろんだけど、ファッション、音楽、遊び、マインド…。
学校では教わらない大切なことを、アメージングスクエアではたくさん教わり、中学生の多感な時期を過ごしていた自分にとっては、とても良い影響を与えてくれた場所でした。
上手く言葉にすることが難しいけれど、スケート、BMX、インラインなど、ジャンルの壁なんてなくて“フラットでいいんだ”って感じれたというか。
どんなジャンルにもカルチャーがあって、それぞれがカッコよくて面白くて、尊重しあったり共存したり、MIXしちゃってもいいんだ、ということをその時は感じていた気がしますね。
1998年から99年頃かな…、遊園地エリアは気付いたら廃墟みたいになっていたので、当時はスケートしつつも、夜は大迷路(現在のシティカート場にあった)に忍び込んで鬼ごっこしたり、スケートショップReboot(現在のミズノスポーツプラザ千住の受付施設にあったレストラン)でビデオ見たり、ご飯食べたり…」
バーチカルから見下ろすシティカート場、奥には毎年3月に少し早く咲く桜“大寒桜”を望める
「ただスケートするだけでなく、アメで会える友達、イケてる大人の方々と過ごす時間、全てが本当に刺激的で楽しい場所でした」
——筆者から補足。
アメージングスクエア(YOMI)スケートパーク時代はバーチカルがあるスケートパークとしても有名で(現在もバーチカルは有名)、比率としては圧倒的に大人が多かった。
当時、スケートは若者の遊びだったのが、MAP’S TOKYOになってからはインライン、スケートボード、BMXの競技人口の変化や、各種目のスクールの開催を積極的に行ったり、昔スケボーをやっていた親が子供にもやらせるようになったりと、スケートパークは子供がいてもいい場所に変貌していった時代でもあった。
実際にこの頃は、東京五輪金メダリストの堀米雄斗や、西村碧莉といった今では世界で活躍するスケーターたちが、キッズ時代を過ごした場所でもある。
「だけど高校生になり、友達、恋愛などなど…お年頃の思春期ということもあり、アメージングから遠ざかり、スケートもしなくなったんですよね。
その頃も滑り続けていたアメージングの友達や、先輩方はガンガン活躍されてて、それを見るたびに嬉しい気持ちや、羨ましい気持ちが湧くと同時に、何もできてない自分に対してストレスを感じたり、その時の自分を恥ずかしいとも思っていました。
今思えば、その時はみんな私なんかより何倍も練習していたし、何より挑戦をしていたんです。
私はそんなみんなと一緒の空間にいて、調子に乗っていただけでしたね。
だからずっとみんなに憧れていました。
そんなことを心のどこかでずっと考えながらも、何かを行動に移すこともなく、22歳までの6年間は全くスケートをしなかったんです。
復活のきっかけは某テーマパークのスケーターオーディションがあるから受けてみないかと誘いを受けて、ERIと一緒に練習を再開したのが2006年(平成18年)の終わり頃。
挑戦の結果、私は落ちちゃったんですが、オーディションで知り合った、当時のKZ CREWで活動していた子に“ChiKaちゃんに向いてると思うから一度練習を見に来て”と誘ってもらい、見学に行ったらヒップホップやUSポップスでガンガン踊るKZ CREWのスタイルに一瞬で心奪われちゃいました。
その場でKZ CREWへの参加を決意しましたね。それが2007年(平成19年)の春頃の話。
KZ CREWのパフォーマーになってからは、その離れていた期間や改めて色々な事を感じた分の反動もあり再出発というか“初心忘るべからず”をモットーに素直にストイックにひたすら練習しました。
インラインスケート時代の自分とはまた違うジャンルとなったけど、KZ CREWとしてアメージングの友達とイベントやパークで再会できるようになったり、違った角度で付き合いが出来るようになったし、状況や形はみんな色々だけど、あの頃の気持ちは今ではとても大きな糧となっています」
キノウチサイクル時代にミニランプやボウルがあったコンテナは店舗に生まれ変わった
「えっと、話をちょっと戻しますね。
大人になって、久しぶりに訪れたアメージングは遊園地時代の遊具や廃墟も完全に無くなり、スケートパークの位置も移動していて、今ではパークビルダーとして活動している木内さんに運営が変わっていたんです。
現在、ムラパーのショップになっているコンテナには当時、ボウルとミニミニランプが設置されていて、お客さんもBMXライダーがメインになっていて、自分がキッズ時代に通っていたパークとは全然違う雰囲気に進化していました」
——ここで筆者から補足。
時代によってアーバンスポーツの人気にも大きな差があり、各運営時代のスケートボード・BMX・インラインスケートのアメージングスクエアでの競技人口比を紹介したい。
あくまで筆者の主観と当時を知る人へのインタビューに基づく比率だが、スケートボードブームの浮き沈みや、当時の人気を知る上ではほとんど間違いはないと思う。
1996年アメージングスクエア(YOMIスケートパーク)時代はインラインスケーターが全体の7割、BMXが2割、スケートボードは1割ほどだった(当時通っていたスケーターに聞くとYOMI時代後半に入るとインラインスケート人気が落ちてあまり見なくなったという証言も)。
ちなみに1999年に行われたX Gamesサンフランシスコ大会では、インラインスケートで日本人が3種目で優勝。スケートボードやBMXでの日本人出場者はまだいなかった(スポーツクライミング競技では平山雄二選手が参加している)。
これがキノウチサイクル時代に変わると、オーナーの木内明男さんがBMXライダーのパークビルダーということもあり、BMXが8割、スケートボードが1.5割、インラインスケーターが0.5割ほどの比率になる。
当時、このスケートパークのために地方から上京してきたBMXライダーに言わせると「BMXの中では全国で一番イケてるパークと言っても過言ではなく、木内さんが作ったセクションの角度が絶妙で、飛ぶのが気持ち良かった」と語っているほど。
2009年、運営がムラサキスポーツ(MAP'S TOKYO〜ムラサキパーク東京)に移ってからは、スケートボードが5割、BMXが4割、インラインが1割ほどに変わっていく。
時代と管理する人に合わせて、競技人口の比率が変わっているのも面白い。
MAP'S TOKYO時代、現在はショップになっているコンテナでの写真
「2009年(平成21年)、ムラサキスポーツに運営が変わり、名前もMAP'S TOKYO (マップス東京)になってからは、コンテナ内は倉庫スペースというか、路面が最高なフラットスペースになっていたので、KZ CREWの練習場所として使わせてもらっていました。
自分のホームグラウンドとなるTokyo Dome ROLLERxSKATE ARENAでのショーの作り込みや、練習をすると、どうしても来てるお客様にネタバレしてしまう事が悩みだったので、あの場所を借りられたのは本当にありがたかったし、今のチームの体制作りのベースになったのでとても助かっていました」ムラサキパーク東京室内パーク制作時の写真
「更にその後、MAP'S TOKYOからムラサキパーク東京に名前を変え、店長は現在の廣岡さんに変わり、コンテナは見違えるほど素晴らしいショップに進化し、パークのレイアウトも変わり、ムラパーとしてどんどん変貌を遂げていく中で、空いてるスペースを快くお借りすることができ、KZ CREWの練習を引き続きさせて頂いていました。
チームとしても廣岡店長のサポートは心強く感謝でいっぱいです」
屋内スケートパーク
バーチカルから見る屋外パーク
BMXやインラインスケートがメインで使うコース
所縁のあるアーティストのグラフィックが施された、通称ウラパー
ムラサキパーク東京の広さ
『施設面積 約2,000㎡(屋外約1,170㎡、屋内約830㎡)』
参照:月間レジャー産業 2021年11月号P29より
「正式にムラパーのスタッフとなったのは2017年(平成29年)7月からで、Tokyo Dome ROLLERxSKATE ARENAの一画にもムラサキスポーツがあるのですが、お世話になっている大先輩が紹介してくれたことがきっかけで、現在はドーム店とムラパー両方のスタッフとして働いています。
この場所は、どれだけ時間が空いても必ずご縁があって、迎え入れてくれたような感覚なので、自分にとっては奇跡の場所です。
変化を重ね、この場所をキープし、続け繋げてきた関係者の皆さんや、愛を持って通ってくださったたくさんのローカルの方々の思いが集まる、とても魅力的で吸引力がある凄いパワーが宿っているのかなって思います。
元々はチャラチャラとスケートしていた場所から、職場となりお客様をご案内する立場となり…様々な形で自分のやってきた事、やりたい事、スケーターとして生きてきた意味を生かす場面を作ってくれたし、教えてくれたのがムラサキパーク東京です。
スタッフになった事で、ローラースケーターとして、そしてKZ CREWとしても感じてきた感覚や経験を、ムラパーのお客様へ伝える、シェアハピする新しい挑戦をさせてもらえる特別な環境でした。
スケートボード、BMXそれぞれプロフェッショナルで、とてもクリエイティブなムラパースタッフからは常に良いパワーや思考、そして私が初期に感じたカルチャーショックみたいに刺激やスパイスをたくさんシェアハピし続けられる最高の環境です…。
大好きです。
そしてムラパーを愛してくれているお客様と過ごせた時間は私の一生の宝物です…。
大好きです。
残念なことにアメージングスクエア内のムラサキパーク東京は無くなってしまいますが、ここを愛してくれた皆さんにとっても、ここでの出会いはこの先の人生に影響していく事がたくさんあると思います。
それだけパワーがあるまさに、“アメージングな場所”となり、語り継いでいけたら良いなと思います。
私のインタビューを読んでくださっている方の中には、私よりも遊園地としてのアメージングスクエアの歴史に知識がある方、YOMIスケートパークの頃にたくさんの時間を過ごされた方、木内さん時代、MAP'S TOKYO時代、そして今のムラパーと、それぞれに歴史や思いがある方がたくさんいらっしゃると思います。
この場所の歴史を作って来たキーマンとなる方がたくさんいる中で、私の記憶を辿り、私の目線で感じてきた事を取材して頂き、恐縮な気持ちでいっぱいです。
長くとても深い歴史や伝説がある場所ですので、ここちょっと違うなぁなど、いろいろ指摘したくなる所もあると思いますが、この記事をきっかけに、それぞれの"あの頃"を、皆さんの空間や、コミュニティで思い出し、語り合ったりするきっかけとなれば嬉しいです。
アメージングスクエアという場所は無くなってしまうけれど、語り継ぎ、思いを繋いで行く ことで、アメージングスクエアは伝説として生き続け、この場所を知ってる方も、知らない方へも今後のための、大切な何かへ続いていくと信じています」
また、ムラパーにはたくさんのキッズスケーター、ライダーが来てくれて、友達と一緒に楽しそうな様子、時に自分と向き合い1人で黙々と乗っている様子、悔しかったり痛かったり泣いている様子などを見ては、いつも心がフルフルしていました。
そんな瞬間をたくさん見させてもらえる幸せが、たくさんありました。
昔の自分と照らし合わせたフィルター越しというのもあったけど、ここは本当に最高の場所だったと再確認するし、きっと子供たちのこの先の人生に繋がって行くのだろうなと思います。
こんな最高の場所が無くなるというのは本当にやるせないし、ずっと夢であれという気持ちだけど、進化や変化を受け入れ、滑り続けられる限りは、アメージングで学ばせてもらったことや、得られた感覚を色んな形で未来に繋げ、恩返ししていくと共に、私も次のステージへ突入したいと思っています。
引き続き、皆さんと乗り続けていきたいと願っています」
筆者もチカちゃんほどではないが、この場所で長くスケートボードをやってきた。
数年前からは仲間内でムラサキパーク東京オヤジ会というものを作って(というか適当に名乗って)みんなで滑ったり、ビールを飲んだりしている。
ムラサキパーク東京は下町特有の文化と、アーバンスポーツが持つ文化を併せ持った、本当に貴重な場所だと思う。
この場所は再開発地域となり、今後は中高層建造物の誘致に動くそうだ。
新しく出来るこの場所には、パークの面影や我々の思いは微塵も残らない。
いつまでも絶対に忘れることは無いだろう。
昔の女子トイレにあったベビーベッドと、その上にあった謎のでかいテディベア。
スケート後の憩いの場となっていた駐車場で、真冬は隅田川から吹く、肌を刺すような風に凍えながらみんないつまでもスケート談義に花を咲かせたこと。
野生のタヌキが夜な夜な出没するセクションや、歓送迎会などの宴。
人生で初めて骨折して救急車に乗ったあの日。
スケボーライターになって初めて取材の仕事をした場所であり、人見知りの自分が初めてローカルだと思えたパークは、永遠にあるような気がしていた。
いつもボロボロの自転車で通った愛するスケートパーク。
ムラパー近くの公園。我々ローカルスケーターにとっても憩いの場だった。
ムラパーの最寄り駅からの風景。多くのムラパーローカルがお世話になったファミリーマートが見える。
今、スケートボードブームで全国にパークは増えているが、日本でこれだけ歴史を刻んできた場所はなかなか無いし、本当に惜しい。
この場所でいろんな出会いや別れ、旅立ちを経験してきた。
技が出来なくて泣いてるキッズ、技が出来て喜ぶキッズ、子供のような表情で楽しむ大人達、見るたびにスケートが上手くなっていく少年少女…そして親御さん…いろんな人を見てきた。
彼らはスケートボードを通して恐怖心や痛み、喜びを共有するからこそ称えあい、大人になってもずっと仲間になる。
人生、ずっと一緒にいられる仲間や友達が出来ることは本当に稀だ。
楽しかった思い出を共有し、一緒に過ごした仲間や自分を知ってくれている仲間であっても、場所が無くなれば、離れ離れになってしまうタイミングがある。
誰にでも自分が生きた証のある居場所があるが、どんな場所も永遠ではない。
だからこそ、その経験を糧に人は新たなステージへ向かわなくてはならない。
ムラサキパーク東京で生きた証を胸に、ローカルスケーター達は次のステージへと向かう。
これまで培ってきた自分を見失わないために、変わらないために変わり続ける。
個人的になりますが最後に、栗田さん、木内さん、廣岡店長、立本さん、玲司、眞謝大輔、チカちゃん、ムラパースタッフ(辞めていった人も含め)のみんな、オヤジ会のみんな、ムラパーローカルのみんな、この場所で関わった全ての人達に感謝の気持ちを送ります。
ありがとうございました。
写真(記事中の一部写真はChiKaより提供)文・小嶋勝美
ムラサキパーク東京のローカルスケーター。
10年間のお笑い芸人生活を経た後、放送作家やスケートボードライターをしています。