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都を離れ、須磨に暮らしはじめた源氏。新しい住まいは海岸よりは少し入った山中にありました。家屋は茅葺き、廊下は葦葺きの簡素な作りで、粗末な垣根が巡らせてあります。かつて熱愛した夕顔の家や紫の上を初めて見つけた北山の家も、こんな感じだった…。恋の記憶が甦ります。
あのときは単に物珍しく思っただけですが、まさかそんな家に自分が暮らすことになろうとは。運命は思いもよらぬものです。「これがただの旅の宿で、観光でしばらく居るだけなら、きっと面白かっただろうな…」。旅行と引っ越しでは大違いです。
須磨は歴史上の有名人とも縁ある場所です。菅原道真が、左遷されて大宰府に行く途中で須磨に立ち寄った際、彼を慕った松が京から飛んできたという伝説があったり、源氏の先輩格とも言えるプレイボーイ、在原業平の兄の行平も、時の帝の怒りに触れて須磨に隠居しています。歌人としても百人一首に名を残す人たちですね。
行平は須磨の暮らしを「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に 藻塩たれつつ侘ぶとこたへよ」と呼んでいます。私はどうしているかと尋ねられたら伝えてほしい、須磨の浦で泣きながら侘しい暮らしをしていると……。今の源氏には、その心境がまさに自分のものになってしまったのです。
目の前には海、あたりは森閑とした山。近所には家もない。にぎやかな京の市中や、華やかな宮中を見慣れた源氏にとって、それはあまりにも寂しい光景でした。
源氏に従ってきた家来は、惟光はじめ数人の男たち。特に良清は現在の播磨国の国守の息子とあって顔も聞き、源氏の新しい生活が少しでも暮らしやすいよう、健気に奔走していました。普段はしない雑用などもあれこれ頑張ってくれている姿を見て、源氏は哀れな気がします。
寂しい場所とは言え、播磨はもとより、摂津(大阪)の国守も源氏に対しては好意的で、待遇は悪くありませんでした。おかげで家の中も庭も整えられ、着々と生活感が出てくるのも、なんだか変な夢でも見ているようです。
引っ越しのバタバタが落ち着いたのは、梅雨に入る頃でした。家来たちの頑張りで暮らしはなんとか整ったものの、京にいるときのように話したり、遊んだりして楽しい、趣味の合う友だちはいない…。源氏のホームシックがはじまり、恋しい各方面へ手紙を書きました。特に紫の上と宮への手紙は、感極まってなかなかうまくかけません。
京に残された人びとも、こぞって源氏を慕って悲しんでいました。源氏ロスですね。特に紫の上は、別れたショックで寝込んでしまい、お付きの女房たちがなだめても効果がなく、しばらく手を焼いていました。
源氏の脱いでいった衣、いつも弾いていた楽器、身の回りの愛用品、香のかおり。紫の上は寂しさのあまり、源氏が部屋を出ていったときのままにしていましたが、まるで故人を悼んでいるようで縁起が悪い。紫の上の乳母は心配して、「源氏が無事に戻り、2人が幸せになれますように」と、お寺に祈祷を頼んだりしています。
出ていく方も辛いですが、取り残される寂しさというのはひとしおです。友達がちょっと遊びに来て、帰ったあとの妙な寂しさは、誰もが経験があると思います。あれだけでも結構寂しいのに、残されたものや思い出とともに寝起きしなければならない紫の上の辛さは、想像以上のものがあったでしょう。
「もし本当に死んだなら、時間とともにあきらめもつくだろうけど、源氏は行こうと思えば行ける須磨にいて、でもいつ帰るかわからない」。そのことが余計に紫の上を苦しめます。中途半端な分、一番不安を感じるパターンかも。
紫の上の仕事は、源氏に衣服などを作って送ることでした。今までは華やかな色の、豪華な模様を織りだした衣装ばかりでしたが、今は身分も位もない人用の、無地の質素なものだけ。「こんな地味な衣を作って送るようになるなんて…」と思うにつけても、紫の上の嘆きは深まります。
「どちらが濡れているか比べてみて。独り寂しく泣いている私の袖と、須磨にいるあなたの袖と」。返事とともに、紫の上が届けた衣は、どれも素晴らしいものばかりでした。
美しく賢いだけでなく、家事も出来る紫の上。なんと立派な奥さんになったことか!源氏は彼女に会いたくなり、「もう浮気もスッパリやめて、彼女と2人で静かに暮らしたい。やっぱりここへ呼び寄せようか…」としばらく悶々とするのでした。
宮は源氏を独り須磨に行かせたことを非常に悲しんでいましたが、一方で過去を振り返り、「源氏にどれだけ恨まれても、自分のとった行動は正しかった」とも思っていました。
出家する前は、関係が世間に知れるのがとにかく恐ろしく、ちょっとでも優しくすれば彼がものすごい勢いで迫ってくるだろうと、ひたすらツンツンしていた宮。その甲斐あって、2人は再び関係をもつことなく、噂になったり、皇太子の出生が疑われることもありませんでした。
女として愛する源氏に応えたかった。でもそうしなくてよかったと今は思える。誰よりも我が子・皇太子のために…。ここへきて、源氏と物理的な距離が離れた分、過去と向き合う余裕ができたのでしょう。以前は避けたくてしょうがなかったのに、離れてみればとても恋しい。でも、今更どうしようもないことです。
宮からのメッセージは出家後、とくにデレた内容に変わってきていますが、関係を迫られない安心感と、冷たくした後悔も手伝って、というところもあるのでしょう。今回もまた優しい返事が届きました。源氏も「もっと前にこうなってくれれば」と思うものの、弱音も含めた心境を素直に書き綴っています。
左大臣や夕霧の乳母にも、源氏からの手紙が届きました。左大臣からの返事は夕霧のことばかり。おじいちゃんらしいですね。乳母には、教育上の注意などが書かれていました。源氏はとにかく息子の教育については色々うるさく、この傾向は夕霧の成長とともにエスカレートしていきます。
源氏もそれを読んで息子が恋しくなるのですが、「しっかりしたおじいちゃんおばあちゃんがいてくれるから安心だ」と事情もあって、子どもよりは妻や愛人のことが気がかりらしい、と作者は書いています。源氏の中では、”妻や愛人>>>>子ども”。左大臣家に挨拶に行ったときも、最後まで愛人の部屋にいた男なので、仕方ないと思います。
この他、源氏は朧月夜や六条御息所、花散里にも手紙を出しています。特に源氏と同じく京を離れ、伊勢での暮らしを送る六条からの返事はとても長く濃厚で、文章的にも素晴らしい内容を、誰よりも卓越した筆跡で優美に書いてありました。いかにもこの人らしいですね。
葵の上との車争いから生霊事件、劇的な野宮での別れなど、おぞましさや嫌悪感もありますが、申し訳なさや恋しさ、尊敬もやっぱりある……いつまでたっても、切っても切れない2人です。源氏も手紙に感動し、こまごまと返事を書いています。
花散里からは嘆きの言葉と「梅雨の長雨で土塀が崩れてしまって……」とありました。地に足の着いた、生活感のある花散里らしい内容です。源氏は離れていても彼女とその姉の生活を約束していたので、京にいる家司(けいし・執事)に指示を出し、修理の手配をしてあげました。
手紙を書いて送り、返事を読んでまた書く…。寂しがり屋の源氏には、何よりもそのことが慰めでした。作者は個性的な女性たちのキャラクターを、返事や近況とともに巧みにかき分けています。読者は源氏と一緒に須磨を体験しながら、人のメールを盗み見る楽しみも味わえるのですね。
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
3分で読む源氏物語 http://genji.choice8989.info/index.html
源氏物語の世界 再編集版 http://www.genji-monogatari.net/
(画像は筆者作成)
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