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難しい恋にのめり込む面倒な性格の光源氏。そのため彼の恋は無理が多く、自分にも相手にも多くの傷を残します。かといって、穏やかな恋愛がまったくなかったわけでもありません。今回は、源氏の恋人の中でも稀有な存在、花散里(はなちるさと)という女性のお話です。
源氏の父・桐壺院(以下、院)には多くの妃がいましたが、その1人に麗景殿(れいけいでん)の女御という方がいました。優しくたしなみの深い女性でしたが、子どもに恵まれなかったので、院が亡くなったあとは心細い暮らしでした。花散里はこの人の妹にあたります。
花散里が、源氏とどのように知り合ったのかは詳しく書いてありません。桐壺院は源氏がまだ幼い頃、多くの妃の部屋に連れ回っていたので、そこで麗景殿と顔見知りになり、妹とも出会ったのかも?
ともあれ、源氏は若い時に花散里と恋仲になり、院亡き後は姉の麗景殿ともども、生活の面倒を見てあげていました。恋仲といっても、藤壺の宮や朧月夜などの熱烈な恋愛関係ではなく、思い出した時に顔を出す程度の、都合の良い関係です。
順風満帆の人生から大ピンチに陥った源氏。先が見えない不安な日々を送る中、ふと花散里のことを思い出して会いに出かけました。
梅雨の晴れ間のさわやかなある日。花散里のもとへ行く途中、琴の音がにぎやかに聞こえる家があります。ちょっと車を止めて見てみると、どうやら一度だけ関係した女の家のようです。
源氏はそのことを思い出し「もう結構前のことだし、あっちも覚えてるかなあ。声をかけてみようか」と悩んでいると、ホトトギスが寄って行けとばかりに鳴きます。源氏は惟光を呼びました。
惟光も久々の忍び歩きにワクワクし、出番とばかりにその家に入っていきます。「主人が昔を思い出して立ち寄らずにはいられないと申しております、お取次を」。
しかし、女房たちは惟光を見ても不審そう。「ホトトギスの声は聞こえましたけど、どういったご用件ですか」と突き返されてしまいます。どうもわざとトボケているらしい。去っていく惟光を見て、源氏が来たとわかった当の女だけは、心のなかで残念に思いました。
惟光の報告を聞いた源氏は「なるほど、多分もうほかの男がいるんだろうな」。ずっと前にたった一度寝ただけの女に、新しい男がいても何の文句も言えないわけですが、少しガッカリ。なんにしても源氏の恋愛としてはちょっと珍しいパターンです。
源氏の恋愛は「切らない、捨てない、別れない」。女のことを忘れない上、自分からは切ったりわかれたりしない。そして何となくフェードアウトすることはあっても、自分から捨てたり別れたりということをしない。「終わりにしてないんだからいいでしょ」とばかりに、突然ひょっこり現れてみたり、またフッと消えてみたり。
作者も書いていますが「女性の側からすれば、このような態度はかえって悩みの種である」。源氏次第の都合のいい関係の中に、現時点での花散里も存在していました。
花散里の家に到着すると、人も少なくひっそりと寂しげです。源氏はまず姉の麗景殿に挨拶して、昔話に花を咲かせます。話しこむうち、またホトトギスの声がしました。「さっきのホトトギス、私を追いかけてきたのかも」。
庭には橘の花が優しく香り、なんとも良い風情です。「時代は移り変わり、すべててが変わっていくけれど、橘の香りは旧情とともに懐かしいですね…」。そんな応答をする麗景殿は、お年ですがやっぱり素敵な女性です。例のごとく源氏はこの人にもとても丁寧に接します。こういう時の源氏は本当に優しいです。
さて、相当遅くなってから、源氏はやっと恋人の花散里に逢いました。久しぶりに見る源氏の美しさ、彼がささやく優しい言葉に、花散里はとても喜びます。
源氏は思います。「好きになる女性にはみんな何かしら素晴らしい美点がある。だから心が惹かれるし、ずっと忘れないんだ。そのことをわかってくれず、間が空いたと思って去っていく人がいるのもしょうがない」。
源氏はいつも「自分はずっと忘れないのに、女性が自分を見切って去っていく」と思っています。都合がいい女扱いをしてるんだからしょうがないと思いつつも、本当は「いつまでも待ってくれる女性がいい」という本音が炸裂です。
花散里が、不安定な関係から源氏の妻として、不動の存在感と本領を発揮するのはもう少し後なのですが、ちょっとフライングして彼女のプロファイルを見てみましょう。
花散里は穏やかで親しみやすく、優しい女性。嫉妬や自己顕示欲とは無縁の彼女と話すと、源氏は心がやすらぎます。たまにしか源氏が来なくても、それを怒ったり恨んだりという感じではなく、ゆったりと鷹揚に待っていて、来てくれたら嬉しいなという感じでいられる人です。
これで美人なら言うことないのですが、残念なことに髪も薄いし貧相に痩せている。(漫画『あさきゆめみし』ではぽっちゃり系。)性的な魅力には乏しい女性です。後に二人の関係はセックスレス化。男女関係としては早々に終わり、精神的な信頼関係で結ばれていきます。
源氏の他の女性たちにも、花散里は貴重な存在です。まず人と争うことがないので、付き合いやすい。源氏の妻の中ではとくに紫の上が嫉妬深く、あれこれヤキモチを焼いてカリカリするのですが、紫の上もこの花散里とだけは姉妹のように仲良くし、共同作業をしたりします。
その上、裁縫や染色などが上手で、采配もうまいので、主婦としても非常にいい仕事をします。子どもの面倒見もよく、お母さん的な存在です。
しかし、花散里は優しいだけのお人好しではありません。彼女がたまに話す人物評は非常に鋭く、源氏も内心舌を巻くほど的確です。お人好しでもバカじゃない。そうなると、女性としてのプライドや嫉妬は、彼女の穏やかさの裏に押し隠されているのだろうか?という疑問も出てきます。
常に自分がどのようなポジションにいるのかを的確に把握し、決して出しゃばらず、かと言ってへりくだり過ぎもしない。そんな花散里を源氏は絶大な信頼を寄せ、驚くほど大事にします。ある意味で源氏の妻の中で一番平和で幸せだったのはこの人なのかも、とすら思います。
今はたまさかの源氏の訪れを待つだけの花散里ですが、千里の道も一歩から。持ち前のおおらかさで源氏を待ち、時間をかけて信頼を勝ち得て、最後に笑う…そんな彼女の物語の始まりです。
簡単なあらすじや相関図はこちらのサイトが参考になります。
3分で読む源氏物語 http://genji.choice8989.info/index.html
源氏物語の世界 再編集版 http://www.genji-monogatari.net/
(画像は筆者作成)
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