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こんにちは、ひとはです。
かつて不倫は文化であると言い放った芸能人がいましたが、いまや不倫は週刊誌やワイドショーの格好のネタとなり、世間から大バッシングを受ける対象となっています。
社会的倫理観からすると、もちろん好ましいことではありません。しかし当事者を徹底的に叩きのめすまで報道を続けることで、読者や視聴者の喝采を浴びるという風潮に対しては、違和感を覚える人も多いのではないでしょうか。
『不寛容社会』の著者・谷本真由美さんは、ネット上ではめいろま(@May_Roma)として活動し、過激な発言が話題を呼ぶことが多い人物です。本書でも大胆な表現で、昨今の日本社会の不寛容さについて疑問を投げかけ、読者に刺激を与えてくれています。
その裏に隠された著者の本当の思いを読み解いていきたいと思います。
本書は、舛添元都知事の公私混同をマスコミが執拗に叩き、ネットでも批判が爆発したお話から始まります。
結局は政治資金の私的流用で辞任に追い込まれた舛添さんですが、その内容は回転寿司やピザ屋への支出、それに寂れた温泉施設での慰安旅行など、政治家のお金にかかわるスキャンダルとしては超セコイものでした。それなのに何故、そこまで執拗に舛添叩きをしてしまったのでしょうか。
またタレントのベッキーさんも不倫騒動によって多くの批判にさらされ、多大なる損失を負うことになりました。これも考えてみれば、彼女の私生活についてのことであり、法律的に何か罪を犯したわけではありません。にも関わらず、その扱いはまるで殺人犯のごとく苛烈なもので、未だに本格復帰ができないままでいます。
他にも、ネット上で高校生がバイト先のコンビニでアイスケースに入った写真をツイッターに投稿したことで大炎上し、自宅からアルバイト先、親の名前までも洗いざらい調べ上げられた事件もありました。こうした騒動に対して著者は、
と疑問を投げかけています。
日本人の他人叩きの理由を探るために、海外のテレビ番組の内容やスキャンダル事情がいくつか紹介されています。これは長年海外に暮らし、国連機関などで多くの国の人と一緒に働いてきた著者ならではの経験と見識が、存分に生かされている部分です。
イギリスのテレビ放送では、家の直し方指南番組、アンティーク(家庭に眠っているゴミ)のオークション番組、異様に簡単な問題ばかりのクイズ番組などが多く、芸能ゴシップ番組は、訴訟が起きる可能性があるので極力避けているそうです。
ドイツ語圏では、昼間の時間は延々と鉄道が走るシーンを流す番組や工場の生産ラインを映す番組などが多いそうで、いかにも工業国らしいところが垣間見られます。
イタリアでは、昼間の番組にもかかわらず、美しい女性やセクシーな男性が延々と料理を作る番組や、おしゃべり好きのイタリア人らしいトーク番組が多く、フランスでは、懐メロやヒップホップを歌って踊る番組や、文学者が詩について論議する番組などが多いそうです。昼間のテレビ番組にも、それぞれの国の国民性が現れていることがよくわかります。
それと対比して日本を見れば、昼間の番組は芸能ゴシップが多いワイドショーがメイン。そうした番組を見ている日本人は、人生の時間の無駄遣いをしているとしか思えない、と言い切っています。
更にワイドショーは、儲かることが好きな割には本質的な部分には注力しないという、日本人の非論理的な側面が象徴されており、人様の不幸は悲しまないのに桜が散ることを惜しむという矛盾した面も持っていると、辛辣な日本人論を展開するところは著者の真骨頂でしょう。
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諸外国と比べて、日本における他人叩きは特異なもののようです。そうした国民性はどこから来たのでしょうか。
ここでは文化人類学者の中根千枝氏の著作を引用して、日本人の閉鎖性は家族単位を「ウチ」とし、それ以外を「ソト」とすることに起因すると説を立てています。
学校教育は集団で行う行事や活動が多く、それが「ウチ」と「ソト」の意識を子供の心に植え付けるきっかけとなります。そして社会に出てからも、会社や町内会などで「ウチ」と「ソト」を分ける意識を持つことが、日本人の普通の感覚となっています。
こうして家族だけでなく、学校ではクラスが「ウチ」となり、会社では課や部が「ウチ」となります。
言われてみれば、自分でも意識せずに、自分の考えや気持ち、あるいは置かれている状況が似ている人を「ウチ」、それ以外の人を「ソト」というように色分けしていることに気がつきます。
こうした考え方が学校でのいじめにつながり、他人叩きが止まらない不寛容な社会を生み出しているという主張には、納得できるのものがあるでしょう。
不寛容な社会を生んだ国民性の根源にあるのは、日本が歴史的に農村を中心とした地域社会で構成されていたことに起因すると言われています。
自分が所属する村や単位が「ウチ」であり、「ソト」はよその村だったことが、いまだに日本人の心の中に生きているのです。いわば村社会が日本の特異な国民性を生み、それが他人叩きを助長しているのです。
これに対して外国の場合は、個を重視する社会です。例えば会社の中で社員が不祥事を働いたとすると、日本では会社全体が悪者のように扱われますが、欧米では会社が謝ることはありません。社員は家族でもなく運命共同体でもなく、単に労働力を提供してもらっているだけの「商取引関係にある商売相手」と考えているからです。
また別の例として、俳優の高畑裕太氏が婦女暴行疑惑で逮捕されたときに、母親である高畑淳子氏が謝罪会見を開いたことについても触れられています。高度な教育を受けているはずのジャーナリストたちが、子供の性癖や育て方などをしつこく聞いていたことに対して、著者は、なぜ母親の淳子氏が会見を開き、涙ながらに謝罪しなければならなかったのかと疑問を呈しています。
これも家族は「ウチ」という運命共同体であるという概念によるものなのです。
この他にも、著者の豊富な海外経験を基にした、諸外国の他人叩き事情が数多く紹介されています。
例えばインドは、カースト制を背景にした階級間での悪口の言い合いがあり、イタリア南部のローマでは、枠から外れる人を許さないドロドロとした人間関係もあって、他人の生活に介入したがるのだそうです。
同じラテン系でも、スペインは日本と同じようなじっとりネトネト型で、集団主義が強い国だといいます。例えばお祭りではみな同じ衣装を着たりするのも、日本と同じく同調圧力が強いからですが、それがお役所のすることを批判できない風潮を生み、経済危機を招いた一因になっているそうです。
このように本書では、諸外国の他人叩きの実情を紹介することで、日本の他人叩きの特異性を浮き彫りにしているのですが、著者は日本の国民性や文化が悪いとはひとことも言っていません。
それぞれの国にはそれぞれの国民性や伝統・文化に従った習慣があり、それらは良い悪いで評価できるものではないからです。
良い悪いという判断は、それぞれの人が持つ物差しをどのようにあてるかということであって、その尺度は国によっても異なりますし、人によって違ってしかるべきものです。これが著者の言いたいことの本質なのだと思います。
最後に著者は、日本人が他人叩きをやめ、生きやすい社会をつくっていくためには何が必要かを説いています。
それは次の4つのことを意識してこころの持ち方を変えていくことです。
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文字数の関係で紹介できませんでしたが、本書には、読者の度肝を抜くような海外ゴシップ記事の過激な内容や、日本人のことを批判するような記述も含まれています。
こうした部分を読むと、著者が妙な優越感をもった外国かぶれの日本人であると、批判的に受け止められてしまう危うさを感じます。しかし恐らくは、それを分かった上で低俗と高尚のぎりぎりの線を狙い、敢えて批判の対象となることで話題を呼び、議論を巻き起こし、それによって自分の意見をより際立たせることを狙っているのだと思います。
さて、この本を読んだ後で、あなたは著者の主張に共感するでしょうか、それとも反発するでしょうか。
寛容とは他人を認めることであるとすれば、著者の意見や過激な発言を認めた上で、あなたはあなた自身の考えを持つべきでしょう。
他人を叩く暇があったら、多くの人の意見を聞き、多くの本を読み、それらを吸収して、更にその上を目指す生き方をしたいものです。
著者が本書を通して訴えているのは、一人でも多くの日本人がそのように変わっていき、行動するようになってくれることを願っているからに違いありません。