工業高専の技術職員(学生実験・演習担当)として35年勤務した後、研究職やNPO運営を経て、東京都市大学で教育改革に取り組む伊藤通子教授。彼女が今、問題視するのは日本の教育に根強く残る「縦割り構造」と、知識を使いこなすための「統合の場」の欠如だ。こうした課題に応える形で伊藤教授が導入したのが、「問いを耕す」ことから始まるプロブレム学習「PBL」、そして東京都市大学独自の「SD PBL(Sustainable Development PBL)」。本記事では、伊藤教授の実践を通じて、社会で本当に活きる力とは何か、教育が育むべき次代の姿とは何かを深掘りする。(聞き手:デジタルシフトウェーブ 代表取締役社長 鈴木康弘氏)

東京都市大学の熱意に打たれて教育の世界へ

鈴木:伊藤先生のこれまでの経歴について教えてください。

伊藤:富山の工業高専を卒業し、その後は国家公務員試験を受けて技術職に就きました。技術職員として35年間勤務しましたね。その後、高専を辞めた際に、東京大学の先生からお声がけいただいて、「うちに来て研究しないか」と言われまして。新領域創成科学研究科という場所で約2年間、特任研究員として環境安全教育に関する研究をしていました。

鈴木:教育現場ではなく、研究に従事されていたのですね。

伊藤:はい。その後は「特定非営利活動法人持続可能な開発のための教育推進会議」(ESD-J)という団体からお誘いいただいいて、事務局長として1年半ほど活動させていただきました。

鈴木:ご活躍の幅が広いですね。

伊藤:そんな中、東京都市大学の前学長である三木千壽先生からお声がけいただいたのです。「伊藤さん、高専で面白い教育に取り組んでいたそうですね、東京都市大学の教育改革をちょっと手伝ってくれませんか」と。

鈴木:三木先生からのお誘いが、大学教育に携わるきっかけになったのですね。

伊藤:ただ、そのとき三木先生に「ちょっと手伝って」と言われたことにカチンときて(笑)。教育はちょっと手伝う程度では到底変わりません。そのため、一度はお断りさせていただいたんですよ。今振り返ると、世間知らずでしたね(笑)。

鈴木:そんなことがあったんですね。

伊藤:それから1週間後に、当時の湯本雅恵副学長からお電話をいただきまして、「ちょっと手伝うのではなく、きちんと取り組んでいただけないか」と言われたのです。そのとき私は、「真剣に取り組んだら、本当の教育が根付くのに10年はかかりますよ。しかも10年後には次の波が押し寄せていますよ。どうお考えですか?」と聞いたのです。すると湯本副学長が、「それでも当大学は取り組むんです」とおっしゃったのです。そこで私も、非力で役立つか分かりませんが、やらせていただこうと決意したのです。今から8年ほど前の話ですね。

東京都市大学 教育開発機構 副機構長 伊藤通子氏

日本の教育システムが抱える根本的な課題

鈴木:伊藤先生は日本の教育システムについて、根本的な課題は何だと考えますか。

伊藤:日本企業同様に、教育システムの「縦割り」の構造に問題があると考えます。学校教育でいえば、教科や専門分野ごとの縦割りですよね。この仕組みを変えない限り、時代が必要とする人材が育ちにくく日本の国際競争力が上がるのは無理だと感じますね。

各教科をしっかり学ぶこと自体には問題はありません。知識を身に付けなければならないし、科目ごとに必要な力を養わないといけないとも思います。ただ、日本の教育で諸外国と比べて圧倒的に不足しているのは、それらを統合する「場」です。

鈴木:統合する場というのは?

伊藤:学んだ知識やスキルを組み合わせて使ったり、新しい何かを生み出したりする「場」です。日本では、統合する「場」は社会に出てからしかないのです。学生は演習する機会なしに社会で実践することになるのです。私はこの仕組みこそが問題だと考えます。

鈴木:知識を学んでも、それをどう使うのかを学ぶ機会がないわけですね。

伊藤:はい。そこには知識つまり認知能力だけでなく、人間力と言ってもいいような非認知能力も含まれます。中には「どう使うのかは社会に出てから考えればよく、学校ではまずは知識を少しでも多く学ばなければダメ」という人もいます。しかし私の印象では、人の7-8割くらいは訓練しないと知識と人間力を上手く活かせないと感じます。知識を習得することに重点を置いた学校教育が長年築かれてきた分、変化の激しい現代社会という本番で既有知識を使いこなしたり、その時々に必要な知識を自分で得たりして仕事や生活に活かすことに時間がかかってしまう人が増えていると感じますね。

鈴木:入社後の社員研修に時間がかかっているのも、統合の「場」を経験していないことに起因しているのかもしれませんね。

伊藤:研修に3年ほど要するなんて声を聞きますよね。そもそも経験しなければ学べないことはたくさんあります。研修に3年、経験に5年、結局は10年くらいかけないとこれまでの学びを活かせないということになっているのです。企業に入ってから経験するのではなく、小学校や中学校、高校、大学で学びを活かす訓練をしておけば、10年もかけずに能力を発揮できるようになると思います。

鈴木:他にはどのような課題がありますか。

伊藤:入試制度も問題の1つです。現在の制度を変えるだけで、若者の努力すべき学びの方向性やメンタルを大きく変えられるのではないでしょうか。一発勝負の制度をいつまで続けるのでしょうか。その日に調子が悪かったら長い間努力したことが無駄になるような制度をいつまで続けるのでしょうか。

例えば海外では、ポートフォリオが重視されています。1年間の学習成果を積み重ね、「こんなことをこれだけ学びました」という実績をファイリングするわけです。最終的な成績表だけではなく、学びの成果物に加えて、様々な先生からの賞状、認定証、アドバイスなどを合わせたポートフォリオを用意します。何が得意でこれだけ取り組んでどれだけ伸びたかという実績を携えて進路を決めるわけですから、学生も自信をもって大学などに進学できるようになるのです。

デジタルシフトウェーブ 代表取締役社長 鈴木康弘氏

鈴木:対して日本の学生は自己肯定感が低いように感じます。

伊藤:おっしゃる通り、若者の自己肯定感は世界から見ても相対的に低くなっています。こうした若者の傾向は、現在の入試制度が大きく影響していると感じますね。今の受験勉強はその人の苦手な部分が浮き彫りになり、好きなことや得意なことは横に置いて苦手な科目ばかり勉強させるという入試対策になってしまうことに問題があると思います。

鈴木:むしろ「好き」や「得意」を見つけ出し伸ばすことに目を向けるべき?

伊藤:はい。しかし今の日本の一般的な入試にこうした考え方はあてはまりません。数学が苦手なら数学を勉強して点を取れ。得意な英語ではなく数学、数学…という感じですね。これでは勉強が嫌になるし、自信だって持てません。「自分は何が好きか」「何が得意か」「何を大切にしているか」といった内面的な問いと向き合う機会を、青年期に十分に確保することが大切ですね。

鈴木:入試制度が、学生の自信や、個々に特有の能力を伸ばす機会を奪っているわけですね。

伊藤:短期的な結果を求める大学教育の風潮にも課題があります。1年間を2つの学期に分けるセメスター制ではなく、クォーター制を採用して知識を効率よく詰め込もうという感じになりつつあります。特にPBLのような体験型の学習では、自分の特性を理解しつつ、チーム内での人間関係を上手く築くコツを掴めるように学生が十分な経験を積むには、ひとつの課題に取り組むために少なくともセメスターという時間が必要だと考えます。クォーターのPBLは思いつきをサッとまとめて教室内で提案して終わり、というのが多く、実際の社会と関わりながらアイディアを練ることや、または自身の問いにこだわり抜く体験ができません。時間を細かく区切って成果を出そうとする環境が、じっくりと思考し共創しつつ人間的に成長するという機会を失わせているように感じますね。

鈴木:先生の中には学生に失敗させたくないという思いが強いあまり、学生が失敗できないと感じ取ってしまうという話を聞いたことがあります。

伊藤:その通りです。実社会の経験のない教員が多くなってきていることも背景にはあると思いますね。学生はせいぜいアルバイト経験を社会だと思っているし、親から教わることもないと思います。ものごとや人間関係がリニアには進まないという社会の現実を知らない教員が学生に対し、失敗に寛容になり、失敗を成功に生かす術を指導するのは限界があると感じます。

「統合する力」を育むPBL/SD PBL

鈴木:現在の教育の根本的な課題と言われる「統合する場」の不足について。こうした場を育むためには、大学をはじめとする現場ではどのような取り組みが必要だと考えますか。

伊藤:統合する場を実現するための具体的な手法の一つが「PBL」です。問題の探究(Problem Based Learning)やプロジェクト推進(Project Based Learning)の過程で様々なことを学び取る学習を意味し、学生が自らの問題意識に照らして現実の課題を見つけ、チームでその解決に挑む学習方法です。自らの問題意識に照らして課題を定義し、さまざまな知識や人間力を総動員して解決策を模索するといった場の体験で得た知恵こそが社会で大いに活きると考えます。

鈴木:PBLは現在、海外でも実践されている教育手法ですね。

伊藤:PBLはさまざまな国で取り入れられています。例えば医学の分野では、医学の膨大で複雑な知識を臨床に応用できるようにと、PBLを取り入れています。工学の分野では、学んだことを駆使して社会変革(イノベーション)につなげる目的でPBLを取り入れています。

そこで私は、こうした取り組みの先端を走る海外の学校をいくつか訪問し、PBLをどう導入しているのかを調査しました。中でも心を動かされたのは、デンマーク・オールボー大学のPBLでした。

鈴木:オールボー大学のPBLにはどのような特徴があったのですか。

伊藤:オールボー大学では、普通の講義や実験で得たことがPBLで発揮できるという教育を実施していました。この大学の学生は5年をかけて修士を取得します。1セメスターにつき1回のプロジェクトに関わるので、5年間で10回のプロジェクトに携わることになります。分かりやすく言うと、主体的に学ぶ卒業研究を10回繰り返すイメージです。この繰り返しが、学生に専門知識はもちろん、さまざまな力を養わせてくれるのです。

鈴木:オールボー大学をヒントに、日本でもPBLを実践しようと考えているわけですね。

伊藤:はい。今から20年くらい前に着想しました。東京都市大学に来て、日本の大学向けにPBLを開発しました。それが、「SD PBL(Project orgnized Problem Based Learning for Sustainable Development)」です。

鈴木:東京都市大学が実施するSD PBLの特徴を教えてください。

伊藤:1年次と2年次は学科ごとのSD PBLがあります。大学3年次には他の学部・学科の学生との混成チームを組んで取り組む機会を設けているのが一番の特徴です。この取り組みは日本の大学では珍しいと思います。他の大学の中には1年次に教養科目の1つとして学部横断の取り組みを実践するところもありますが、当大学のSD PBLの狙いは違います。

鈴木:どんな狙いがあるのでしょうか。

伊藤:ある程度の専門性を身に付けてから、他学部の学生同士でチームを組むようにしています。自分の中に、「私はこの分野を専門にやっていくんだ」という誇りと自覚を持ったときに他学部の学生とチームを組むのです。こうした環境はまさに社会と同じですよね。企業ではいろいろなプロジェクトが走り、その中にはいろいろな経験や専門を持ったメンバーが集まっています。こうした社会の縮図を大学3年次に実践できるようにしています。

鈴木:専門性を確立する過程で、異分野の人間と協力して社会の課題に取り組むということですね。

伊藤:高専で実施していた PBLでは、自治体の施設やNPO、福祉施設など地域のさまざまな事業所に、異なる学科同士で結成した学生チームを派遣し、その事業所の社会的ミッションを果たすためにどう技術力で支援できるのかというテーマを設定していました。例えば保育園の「子供に片付け習慣を身につけさせたい」という保育園の教育方針に対し、片付けしやすい「仕組みを備えた装置」という提案をし社会実装します。このように、学生はまず、保育園のミッションや方針を知り、状況を観察したり交流したりして、そのミッションを達成するためのモノづくりに取り組んだのです。これは企業にも当てはまるアプローチだと思います。

鈴木:東京都市大学のSD PBLを通じて、学生はどのような力を身につけることができるのでしょうか。

伊藤:自身の専門性と人間力を統合して使う力です。さらに、多様な価値観を持つ人々と協力して目的を達成する力、多様な視点から物事を見て社会のリアルな問題を見出す力、失敗や理不尽な経験を乗り越える力を身に付けられると考えます。特に、失敗を恐れずに挑戦する姿勢は、社会で非常に重要です。学生時代に失敗を恐れない経験をしておけば、「大したことない」と思えるようになりますよね。

鈴木:SD PBLを通じて学生が成長するためには何が必要だと考えますか。

伊藤:教員や誰かの問題意識に即した課題を与えたとしても学生はちゃんと取り組みますが、主体性のある学びや成長につながるとは思えません。そこで、3年次のSD PBLでは「耕し」の時間を長くしています。まずは自分のライフストーリーを描き、これまでの経験を振り返ってもらうようにしています。その上で今の自分が大切にする価値観を明示させます。さらに今度は、大学で自分は何を学んだのかを振り返らせます。こうした自己や学修に関する振り返りすることで、自分にとって重要だと思える「問い」を見つけ未来志向で取り組むことができるようにします。一般的な課題解決学習の場合、学生はいきなり課題を与えられますが、PBL(プロブレム学習)ではそうせず、自分自身の「耕し」の時間を設け自分事として取り組めるようにしています。

鈴木:自己理解と、学びの振り返りから始めるのですね。

伊藤:私の担当する授業では、最初の2、3回は「耕し」の時間に使います。例えば「知育おもちゃを作る」というテーマでもいきなり何を作るか考えるのではなく、「知育おもちゃって何?」「自分が科学って面白いと思った瞬間ってどういう経験?」などの振り返りから入ります。まずは自分の心の中を耕しながら調査を始め、問題や課題の本質を見極めることを大切にしています。このプロセスがないと、学生は自分ごととしてPBLに取り組めないため、その過程で得た知識も身につかないのです。

鈴木:表面的な課題解決だけでなく、学生自身の内面に深く関わることから始めるのですね。

伊藤:はい。PBLのプロセスでは、学生は既有知識を使ってチームで取り組むうちに、自分やチームメイトの知識だけでは足りないことや他の情報に興味が出てくることに気付きます。自主的に自分に必要なものを取り込もうとするプロセスがなければPBLとは言えません。

鈴木:PBLのような新しい教育手法を導入するなら、それを運用する先生方の意識改革も必要です。

伊藤:その通りです。PBLを導入する上での最大のハードルは、先生方の教育観、学習観です。もっともデンマークも50年前は同様のハードルに直面していました。デンマークでも当時、学生は教室で先生の話を聞き、テストを受けるといった教育でした。しかし現在の教育は違います。国の教育政策を大きく転換できたのが要因です。日本もこうしたトップからの方針転換がなければ個々の先生方の考え方の改革も思うように進みません。

鈴木:PBLにおける先生の役割はどのように変化するのでしょうか。

伊藤:教えるというより、学生にとっての「辞書」のような役割になるべきです。学生が「辞書」を引きたくなるのを待ち、辞書を引きにきたとき、その学生にとっての学びが最大になるものを返すようにします。それこそが先生の役割です。知識を一方的に与えるのではなく、学生の問いに応じて、または学生の力量に適した情報や思考方法を提供し、PBLの学びのプロセスをより充実させるといった役割を徹底することが必要ですね。

鈴木:統合する力だけでなく、自己理解や自律的な学び、多様な人との協働、失敗からの学びなど、社会で求められる幅広い力を育むための教育こそ、教育の根本的な課題を解消し、この世の中を自分らしく幸せに生きていくために必要なのですね。本日は大変貴重なご意見をありがとうございました。

伊藤:こちらこそ、これからの教育の在り方について議論でき、貴重な時間でした。ありがとうございました。

東京都市大学
https://www.tcu.ac.jp/

情報提供元: DXマガジン_テクノロジー
記事名:「 「教える」をやめて「問いを耕す」へ。伊藤教授が語る、“10年先”を見据えた教育改革論