実はキスは4500年前から文字に記されていた
古代メソポタミア、いまのイラクやシリアのあたりでは、人々は湿った粘土の板に文字を押しつけて記録を残しました。
くさびのような形の線が並ぶこの文字は、楔形文字(くさびがたもじ)と呼ばれます。
粘土板には役所の記録だけでなく、神々の物語や恋の詩、裁判の記録まで残されています。
ところで、私たちが恋人や家族と交わす「キス」は、よく考えると少し不思議な行為です。
唇を相手に押し当てるだけのしぐさが、愛情や欲望、親しさのしるしになっているのですから。
ただ、人がいつからキスをしていたのかは、誰にも分かっていません。
文字が生まれる前のキスは、跡を残さずに消えてしまうからです。
では、文字に残された最も古いキスは、いつ、誰が交わしたものだったのでしょうか?
そして、それを刻んだ人々は、キスをどんなものだと考えていたのでしょうか?
研究の詳細は、デンマークのコペンハーゲン大学らにより、2025年10月18日付で学術誌『Evolution and Human Behavior』に掲載されました。
これまで「最古のキス」とされてきた記録
キスの最古の記録として、研究者たちはこれまで、南アジアのある文書をよく挙げてきました。
暫定的に紀元前1500年ごろのものとされる、およそ3500年前の文書です。
ところが2023年、この見方を揺さぶる論文が出ます。
書いたのは、コペンハーゲン大学のトロエルス・パンク・アーボル氏と、生物学者のソフィー・ルン・ラスムセン氏です。
アーボル氏はアッシリア学者で、メソポタミアの古い記録を読み解いてきました。
2人は、メソポタミアの記録を使えば、キスの記録の歴史をおよそ1000年さかのぼれると示しました。
その後の研究で、さらに古い文章も見つかっています。
今回アーボル氏は、それらを含む古代の記録を集め直し、キスの始まりを見直しました。
対象は、紀元前3千年紀(紀元前3000〜前2001年)の半ばから紀元前1千年紀(紀元前1000〜前1年)のはじめまでの、古代中東とその周りの地域です。
手がかりにしたのは、言葉、文章、絵、そして遺物という4種類の資料です。
楔形文字の文章は、すでに出版されている翻訳をもとに読み直しています。
アーボル氏が注目したのは、恋人どうしの「恋愛・性のキス」と、家族や友人の間の「親しみのキス」の2つです。
さらにアーボル氏は、ある問いにも踏み込みました。
恋愛のキスは、はじめは一部の上流の人々のふるまいだったのか、それとも広く日常にあったのか、という問いです。
古代の裁判で「唇にキスしない」と誓ったのは誰?
まず見つかったのは、普通の恋人どうしではなく、神々のキスでした。
穀物の女神エジナンと、神アンが登場するシュメールの神話です。
この神話の写本は、紀元前2600〜前2500年ごろのものとされています。
これは、今からおよそ4500〜4600年前に書かれた、文字に残る最も古い恋愛・性のキスの記録の一つです。
物語の中で2柱の神は交わり、キスをし、やがて親になります。
紀元前2500〜前2350年ごろの粘土の遺物「バートン円筒」にも、神々の交わりのあとのキスが記されています。
初期のシュメール語の文章では、キスは交わりのあとの行為だった可能性があり、触れる場所は唇でした。
また、ごく初期の神話では、キスは主に男性の側から始まるもので、舞台は神々の世界でした。ときには、互いの喜びというより、権威を示すふるまいとも結びついていました。
では、神ではない人々のキスは残っていないのでしょうか?
4000年近く前の都市シッパルでは、こんな恋の言葉が書き残されていました。
「上の唇は湿り、下の唇は震える! 私はあの人を抱きしめ、キスしよう」
これは、愚かな男と一途な女が言葉を交わす作り話の一節で、アッカド語(メソポタミアで使われた別の言葉)で書かれています。
高鳴る胸を唇で語るこの言葉は、いまの恋愛小説にあってもおかしくないほど身近に響きます。
ただし、この会話は上流の人々の言葉で書かれているという指摘もあり、庶民の気持ちを映しているのかは分かりません。
紀元前1800年ごろのバビロニアの粘土の模型には、交わりながらキスをする裸の男女の姿が表されています。
男女がキスをする姿を表したメソポタミアの粘土の板の実際の写真はこちら(コペンハーゲン大学) 画像1
同じころの都市ラルサの裁判記録は、さらに生々しい場面を伝えています。
シャト・マルドゥクという女性が、アフニという男性を避けると誓った記録です。
「彼は私のもとに戻らない。男女の関係を持ちかけない。そして、私の唇にキスしない」
2人は結婚していなかったようです。
少なくともこの件では、共同体が2人の親密なふるまいを取り決めていたことになります。
彼女が娼婦だったという説もありますが、本当のところはまったく分かっていません。
同じころの手紙には、結婚した女性が別の男性のキスで道を踏み外した話が記されています。
性的な関係を持たないはずの、ある種の巫女にキスすると、言葉を話せなくなると信じられていたこともありました。
つまりキスは、愛情や欲望を伝えるだけでなく、場面によっては眉をひそめられる、社会のきまりの一部でもあったのです。
「こする」「嗅ぐ」──言葉に残るキスの姿
キスの痕跡は、物語や裁判だけでなく、言葉そのものにも残っていました。
シュメール語でキスを表す「ネ・スブ」という動詞は、紀元前26世紀から書かれています。
後ろの「スブ」は、こする動きや、乳を吸うことを思わせる言葉です。
前の「ネ」の意味ははっきりしませんが、この字は「火」や「熱い」「熱に浮かされる」を表すのにも使われます。
キスにも恋にも熱さが伴うという解釈もできそうですが、研究者の間で意見はそろっていません。
古代エジプトでは、紀元前24世紀ごろに「sn」という動詞が現れます。
この言葉は「嗅ぐ」と「キスする」の両方を意味し、象形文字には鼻を表す記号が入っています。
つまりエジプトのキスは、鼻を寄せるしぐさが中心だったと考えられます。ただし、「sn」が口を使うしぐさを指しているのか、はっきりしない文もあります。
紀元前1千年紀の終わりごろになると、「吐く」という言葉と関係する、口だけのキスを表す動詞が現れます。
アナトリア中部(いまのトルコの中央部)では、紀元前16〜前13世紀にヒッタイト語が楔形文字で記録されました。このヒッタイト語に、キスを表す「クワス」という動詞がありました。
ヒッタイト語は、記録に残る中で最も古いインド・ヨーロッパ語族(英語も含まれる言葉の大きなグループ)の言葉です。
そのため「クワス」は、記録で確かめられる中では、英語の「kiss」の最も古い祖先である可能性が高いと見られています。
友人どうしのキスも、物語に登場します。
英雄ギルガメシュは、杉の森で怪物フワワに会うと、友人のようにキスするふりをして、その頬を殴りつけました。
親子のキスも記録に残っています。紀元前2千年紀前半の文書には、法的なもめごとの中で言葉が本当だと強めるために「わが子の唇にキスし、神シャマシュの紋章にかけて誓う」と述べた一節が、1つだけあります。
神ウトゥは「真昼に日陰も作らず舌でキスすること」を忌み嫌う、と読めることわざも残っています。
ただし、このことわざは別の読み方もでき、本当にキスを指すのかは確かではありません。
こうした記録から、アーボル氏は、キスはどこか1つの地域で生まれて広まった習慣ではないと考えています。
「複数の古代文化で、何千年にもわたって行われていたようだ」というのです。
一方で、恋愛のキスがはじめは上流の人々のふるまいだったのかは、まだ決着していません。
古い記録をどう読むかという難しさも、研究は指摘しています。
それに、文字に残る最古のキスが、人類最初のキスというわけではありません。
メソポタミアで文字が生まれたのはおよそ5200年前で、はじめは主に事務の記録に使われました。
いまのベツレヘム近くの地域では、約1万1000年前に「アイン・サクリの恋人たち」という小さな像が彫られました。
腕と脚を絡めて抱き合う2人は頭を寄せ合い、大英博物館は唇も触れ合っていると説明しています。
何千年も前の粘土板に刻まれた唇は、恋に震え、ときには裁判の場で「もうキスさせない」と誓われるものだったのです。
写真で見る古代中東の粘土板と像
参考文献
A Kiss From 4,500 Years Ago Reveals Something Remarkably Familiar About Ancient Humans (ZME Science)
https://www.zmescience.com/feature-post/culture/culture-society/a-kiss-from-4500-years-ago-reveals-something-remarkably-familiar-about-ancient-humans/
元論文
Ancient kiss-tory: new perspectives on the evolution of early historical kissing
https://doi.org/10.1016/j.evolhumbehav.2025.106778
ライター
山下 浩介: むずかしい研究を、なるべく分かりやすく伝えたい。専門の言葉はふだんの言葉に置きかえて、身近な例で例える。それで「わかった」「楽しかった」と言ってもらえたら嬉しいです。
好きなのは、通学路や台所や日常の中にある科学。眠っているあいだに記憶が整理される話や、虫の鳴き方に意味がある話のように、読み終わったあとに誰かへ話したくなる研究を探しています。
編集者
ナゾロジー 編集部