「最も命を奪う動物」蚊のオス、メスの羽音を耳で千倍以上に増幅
蚊は、ときに「世界で最も命を奪う動物」とも呼ばれる生き物です。
なかでもネッタイシマカは、デング熱などの病気を人に運ぶ蚊として知られます。
そんな蚊のオスは、夕暮れどきに群れをつくって飛びます。
そこへメスが飛んでくると、オスはその羽音を聞きつけて近づき、交尾します。
ところが、メスのほうはオスの羽音に引き寄せられることがありません。
このはっきりした行動の性差は、およそ100年前から知られていました。
それなのに、この違いを生み出す遺伝子は、これまで分かっていなかったのです。
オスの蚊だけがメスの羽音にこれほど強く引かれるのは、なぜなのでしょうか。
研究の詳細は、名古屋大学らにより、2026年10月27日付で学術誌『PLOS Biology』に掲載されました。
鍵の候補は「オスの行動をつくる遺伝子」
研究グループが目をつけたのは、フルートレス(fruitless)という遺伝子です。
この遺伝子は、昆虫の性を決める仕組みの下流(その仕組みから指令を受ける側)で働いています。
ただし、オスかメスかそのものを決めるわけではありません。
神経をオス型に仕上げることで、行動の性差を生み出す遺伝子なのです。
この遺伝子は、オスとメスで読み取られ方が違います。
そのため、働くタンパク質(FruM)がつくられるのはオスだけだと考えられています。
そこで研究グループは、FruMをつくれなくしたネッタイシマカのオスを用意しました。
ここでは、これを「変異オス」と呼びます。
研究グループは、群れができる夕暮れどきの飛び方を調べました。
1つのケージに30匹の蚊を入れ、夕暮れの時間帯に飛ぶ位置を記録しました。
すると、正常なオスはケージの中央付近に集まって飛んでいました。
一方で、変異オスはメスと同じように、ケージの壁ぞいを飛んでいたのです。
ケージの中央にマイクを置き、そばを通り過ぎる回数も数えました。
その結果、変異オスがマイクの前を通る回数は、正常なオスよりはっきり少なくなりました。
その回数は、メスとのあいだに統計的にはっきりした差が見られないほどでした。
つまり変異オスは、夕暮れに中央へ集まるオスらしい飛び方をしなくなったのです。
では、オスとしての体そのものが変わってしまったのでしょうか。
研究グループは、マイクで拾った羽音から、羽ばたきの速さ(周波数)も調べました。
変異オスの羽ばたきの速さは、正常なオスとのあいだに統計的にはっきりした差が見られませんでした。
一方、メスの羽ばたきは、どちらのオスよりもはっきり遅いものでした。
羽ばたきの速さに正常なオスとのはっきりした差は見られなかったのに、変異オスは中央の群れに加わらなくなっていました。
群れに加わらない変異オス、メスの羽音の高さなら寄ってくる?
次に研究グループは、変異オスが音そのものにどう反応するかを確かめました。
ひとつの高さだけの音(純音)を鳴らし、オスが寄ってくるかを見る実験です。
音の高さは、メスの羽音の範囲を含み、さらにその外側まで広げて用意しました。
正常なオスは、特定の高さの音に強く引き寄せられました。
ところが変異オスは、そのどの高さの音にも寄ってきませんでした。
フルートレス遺伝子の2つのコピーのうち片方だけが壊れたオスは、正常なオスと同じく特定の音に強く引かれました。
音を聞いたオスがおなかを曲げる反応も、変異オスでは消えていました。
メスの羽ばたきは平均で1秒間に約470回と見積もられていますが、その高さの音を聞かせても、変異オスの反応は同じく消えていました。
つまり変異オスは、メスの羽音に引き寄せられる行動を完全に失っていたのです。
その結果、変異オスはメスを見つけられず、交尾にも失敗していました。
では、なぜ音に反応しなくなったのでしょうか。
研究グループが注目したのは、蚊の触角にある「耳」です。
正常なオスの耳では、フルートレス遺伝子が強く働いていました。
しかも、耳で音を感じ取る神経細胞のあいだで、広く強く働いていたのです。
オスの蚊の耳には、メスの耳にはない特別な性質があります。
耳が自分から振動し続けるという性質(自己振動)です。
この自己振動は、オスがメスの羽音を基準の千倍以上に増幅していることを示すものです。
いわば、オスの耳にはメスの羽音を自ら大きくして聞く仕組みが備わっているのです。
ところが変異オスの耳では、この自己振動が完全に消えていました。
耳がいちばんよく反応する音の高さも、正常なオスより高いほうへずれていました。
さらに、音を聞いたときに耳から脳へ送られる電気信号の大きさも測りました。
すると変異オスの耳が伝える、音の高さに応じた電気信号は、正常なオスの約6分の1の大きさしかありませんでした。
脳へ届く音の情報が、大幅に減っていたことになります。
研究グループは、変異オスが音に寄ってこない理由の一部が、この耳の不具合にあるとみています。
ただし、変異オスの耳が聞こえなくなったわけではなく、自分から音をとらえにいく働きの特徴はまだ見られました。
そのため研究グループは、脳で音の情報を処理する段階にも、FruMが関わっている可能性があると考えています。
フルートレス遺伝子は、メスの羽音を聞き取るオスの耳の働きを決めるうえで、大きな役割を果たしていたのです。
ハエとは違う、蚊ならではの「耳の性差」
研究グループは、耳で働いている遺伝子の全体像も調べました。
すると、聴覚に欠かせない遺伝子のいくつかが、FruMの影響を受けている可能性が示されました。
研究グループは、その影響が直接の場合も間接の場合も考えられるとしています。
たとえば、メスの耳でよく働く聴覚の遺伝子(Dlc90F)では、その働きを調節する領域の2か所に、FruMが直接くっつくことが分かりました。
オスの耳では、FruMがこの遺伝子の働きを直接おさえている可能性があります。
FruMはこうした遺伝子を通して、オス特有の耳の仕組みをつくっているとみられます。
この結果は、ショウジョウバエと比べると、さらに際立ちます。
ショウジョウバエの触角の耳は、つくりも働きもオスとメスで違いがありません。
耳の神経細胞でフルートレス遺伝子が働くのも、ごく一部にとどまります。
蚊とショウジョウバエは、約2億5千万年前に分かれたとされます。
その長い時間のなかで、この遺伝子の役割が両者で分かれていったと考えられます。
ただし、蚊の耳になぜ性差が生まれたのか、その進化の道筋はまだ分かっていません。
この遺伝子がどのように蚊の耳のオス化に使われるようになったのかも、今後の課題です。
なお、今回の行動の結果は、実験室のケージの中でネッタイシマカを観察して得られたものです。
それでも、この発見は蚊の対策に役立つ可能性があります。
オスは耳を頼りにメスを探すため、耳を支える遺伝子は防除の新たな標的になりうるからです。
研究グループは、蚊の繁殖を抑える新しい方法につながることを期待しています。
夕暮れに群れの中央を飛ぶオスは、メスの羽音を耳で千倍以上に大きくして聞く仕組みも備えていました。
FruMを失ったオスは、羽ばたきの速さこそ正常なオスとはっきりした差がないのに、この耳の仕組みをなくし、メスと同じ壁ぎわを飛ぶようになっていたのです。
写真で見る蚊とショウジョウバエ
参考文献
蚊のオスが「メスの羽音」に惹かれる理由を解明 ~行動の性差を生む遺伝子 fruitless がオスの耳をつくる~ (名古屋大学 研究成果)
https://www.nagoya-u.ac.jp/researchinfo/result/2026/10/-fruitless.html
元論文
fruitless is essential for male Aedes aegypti mosquito attraction to female flight sounds
https://doi.org/10.1371/journal.pbio.3004041
ライター
山下 浩介: むずかしい研究を、なるべく分かりやすく伝えたい。専門の言葉はふだんの言葉に置きかえて、身近な例で例える。それで「わかった」「楽しかった」と言ってもらえたら嬉しいです。
好きなのは、通学路や台所や日常の中にある科学。眠っているあいだに記憶が整理される話や、虫の鳴き方に意味がある話のように、読み終わったあとに誰かへ話したくなる研究を探しています。
編集者
ナゾロジー 編集部