耳あかは、私たちにとって、ごく身近な物質です。


医学では「セルメン(cerumen)」と呼ばれ、この名前はミツバチのロウを指すギリシャ語に由来します。


人は古くから耳あかに関心を持ってきており、世界各地の遺跡からは耳あかを取るための道具も見つかっています。


ただし耳には、ほかの体の穴と違う点があります。


ほかの穴は粘液や涙のような液を出しますが、耳には身を守る手段がないように見えるのです。


では耳は、中へ入り込もうとする虫をどうやって防いでいるのでしょうか?


ある研究チームは、その答えが耳あかの意外な性質にあると考え、アリを使った実験で確かめました。


研究の詳細は、2026年1月1日付で学術誌『Soft Matter』に掲載されました。


耳は虫が迷い込む「行き止まり」


耳の穴(外耳道)のつくりを描いた図です。細長い穴の奥は行き止まりで、虫が迷い込む場所になっています。 / Credit: Didier Descouens / Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)

ふつうの人にはまれなことですが、耳に虫が入る例は医学の記録にたくさん残っています。


耳の穴(外耳道)は細長く、奥が行き止まりになっています。


医師たちは1920年代から、生きた人の耳からアリやダニ、チョウ、甲虫、ゴキブリなどを取り出してきました。


虫の動きが活発になる夏には、こうした例が増えます。


1957年7月には、アメリカのボーイスカウト186人が、耳に入った甲虫のために治療を受けました。


耳の痛みで受診した大人では、耳の中の異物の最大80%が虫やクモだと報告されています。


子どもでは4〜20%ですが、これは消しゴムなどを自分で入れてしまう例が多いためです。


生きた虫は、耳の皮膚や鼓膜を刺したり、かんだり、ひっかいたりすることもあります。


人の指先にのったヒアリです(アメリカ・テキサス州、2020年1月)。医師が人の耳から取り出してきた虫には、アリも入っています。 / Credit: Meghan Cassidy / iNaturalist(CC BY-SA 4.0)

こうした例の多さから、医師たちは一つの考えを持つようになりました。


耳あかは、虫を防ぐ「天然の壁」として進化したのではないか、というものです。


しかし、その壁がどんなしくみで働くのかは分かっていませんでした。


そこで機械工学の研究者たちは、耳あかの化学ではなく、物理の性質に目を向けました。


実験には大量の耳あかが必要ですが、1人の片耳にある耳あかは米粒1つ分ほどしかありません。


チームははじめ、死んだブタやヒツジ、ウサギから耳あかを集め、やがて友人や家族からも分けてもらいました。


ちなみに耳あかの質は人によって違い、1つの遺伝子の違いによって、東アジアの人は乾いたカサカサの耳あかになります。


一方、アフリカ系やヨーロッパ系の人の耳あかは、湿ってやわらかいのが特徴です。


耳あかは人だけのものではなく、鳥やクジラの耳にもあり、クジラでは耳あかのかたまりが長さ25cmに達することもあります。


ガラスなら10分で逃げたアリ、耳あかの縁ではどうなる?


左耳の耳の穴(外耳道)のようすです。研究チームは最初の実験で、耳あかのない、きれいな耳の穴をガラスのビーカーでまねました。 / Credit: Didier Descouens / Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)

研究チームはまず、耳あかのない、きれいな耳の穴を想定した実験をしました。


ガラスのビーカーの底に、アリが嫌がる薬剤を置きます。


アリは壁を登って逃げ出し、内側にぐるりと引いた「ゴールライン」を越えていきます。


2回の試験のどちらでも、全てのアリが10分以内にラインを越えました。


耳がきれいなら、虫は簡単に出入りできるというわけです。


次にチームは、ゴールラインに厚さ0.5mmの耳あかを、縁をぐるりと囲むように塗りました。


これが、ふつうの耳の穴をまねた状態です。


すると、登ってきたアリは耳あかの手前でぴたりと止まりました。


そして縁に沿って回りながら別の道を探し、それからようやく耳あかを越えようとしたのです。


夕方の光の中で、細い枝を登るアリです。実験のアリは耳あかの手前で止まり、縁に沿って回りながら別の道を探しました。 / Credit: Photo by Dmytro Koplyk on Pexels(Pexels のライセンス)

全てのアリが逃げ出すまでには、3時間かかりました。


何も塗らないビーカーのときの、18倍の時間です。


耳あかの帯の一部に6cmだけ何も塗らないすき間を残すと、2時間のうちに50匹のうち35匹が、耳あかを越えずにそのすき間から逃げました。


歩く速さも落ち、垂直に立てたビーカーでは、耳あかの上はガラスの上より32%遅くなりました。


45度に傾けたビーカーでは、その差は51%に広がりました。


違いがもっとはっきり出たのは、耳あかを薄く平らにならしたときです。


チームは縁の一部の耳あかを、手袋とヘラで平らにのばしました。


すると、アリの48%が、2時間たってもそこを越えられませんでした。


前脚が平らな耳あかに触れた途端、滑り落ちてしまったのです。


なぜアリは、耳あかの上で踏ん張れないのでしょうか?


アリの脚には、ザラザラした面をつかむトゲのようなツメと、ツルツルの面に吸いつく湿った吸盤のような部分があります。


アリの一種を、横から細かく写したものです。脚の先には、ザラザラの面をつかむツメと、ツルツルの面に吸いつく吸盤のような部分があります。 / Credit: Richard Bartz, Munich Makro Freak / Wikimedia Commons(CC BY-SA 2.5)

この吸盤のおかげで、アリはツルツルのガラスの上でも体重の60倍を支えられます。


チームは、切り取ったアリの脚1本が耳あかにくっつく力を、ごく小さな力をはかる装置ではかりました。


吸盤の働きを見るため、脚のツメは引っこめた状態にしています。


その結果、耳あかにくっつく力は、ガラスにくっつく力の約100分の1しかありませんでした。


6本の脚を合わせても、耳あかの上では体重の1.5倍ほどの力にしかならない計算です。


ザラザラの耳あかならツメで少しずつ登れても、ツルツルの耳あかでは吸盤が頼りにならなかったと考えられます。


アメイロアリです。実験では、アリの脚が耳あかにくっつく力は、ガラスにくっつく力の約100分の1しかありませんでした。 / Credit: Rhododendrites / Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

一方、耳あかの「くっつく」顔が見えたのは、耳の穴に近い大きさのトンネルを使った実験です。


アリがトンネルを進むと、内側に塗った耳あかが体にくっつきました。


耳あかまみれになったアリは必死に体をきれいにし、できるだけ落とすまで歩こうとしませんでした。


数分たっても、体の届きにくい所には耳あかが残っていました。


耳あかは、アリの脚を滑らせる一方で、体にはしつこくくっつく物質だったのです。


「滑る」と「くっつく」を両立させる作り


医師が器具と洗浄を使い、左右の耳から1つずつ取り出した耳あかです。このかたまりの作りが、「滑る」と「くっつく」の二つの性質を生んでいます。 / Credit: Mark Howard / Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)

正反対に見える二つの性質は、耳あかの作りから生まれています。


耳あかは、はがれた皮膚のかけらを、つなぎとなる成分で固めたものです。


その中には目に見えないほど小さな穴がたくさんあり、全体がスポンジのようになっています。


「滑る」性質は、耳あかに含まれる脂の成分のおかげだとされています。


しかも耳あかは、名前に「ロウ」の意味を持つのに、水をはじきません。


粒の形をしたパラフィンのロウです。耳あかの名前もロウに由来しますが、パラフィンと違って水をはじきません。 / Credit: Gmhofmann / Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)

水滴をのせると、パラフィンのようなロウの上では丸く盛り上がりますが、耳あかの上ではそれより低く広がります。


水滴が面となす角度(接触角)は、パラフィンで100°以上、耳あかでは60°ほどでした。


水をはじく葉の上で、丸い形になった水滴です。パラフィンの上でも水滴はこのように丸く盛り上がりますが、耳あかの上では低く広がります。 / Credit: photo taken by flickr user tanakawho / Wikimedia Commons(CC BY 2.0)

研究チームの考えでは、この水になじむ穴だらけの作りが、アリを滑らせる鍵です。


アリの吸盤は、脚から出る液体を使って面にくっつきます。


ところが耳あかの上では、その液体が小さな穴に吸い込まれ、しっかりくっつく前に消えてしまう可能性があるのです。


ただしこれは推測で、脚と耳あかの間の液体を直接はかったり、見たりしたわけではありません。


耳あかには、動かし方で粘り気が変わる性質もあります。


ゆっくり押すとパン生地ほどの粘り気ですが、速く動かすとラードほどにやわらかくなります。


ケチャップや歯みがき粉と同じく、力を加えるほど流れやすくなるタイプの物質です(ずり流動化)。


中世の画家たちは、この性質を生かして、耳あかを絵の具のつなぎに使っていました。


ただし、耳あかがいつでも虫を止められるわけではありません。


耳あかがたまりすぎて岩のように盛り上がると、アリは簡単に乗り越えてしまいます。


耳の穴(外耳道)にたまった耳あかです。虫にとって手ごわいのは、たまった耳あかよりも、薄く平らにならした層の方でした。 / Credit: Didier Descouens / Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)

実験で虫にとって最も手ごわかったのは、ヘラで薄く平らにならした耳あかの層でした。


耳には、耳あかがたまりすぎないようにする自浄のしくみもあります。


耳の穴の皮膚はベルトコンベアのように外へ伸びていき、8〜10週間かけて古い耳あかを外へ押し出します。


さらに今回、耳あかは古くなるともろくなり、10週間ほどで自然に外へ出やすくなることも示されました。


医学の世界では、耳は自分できれいになるため、耳あかは無理に取らない方がよいと考えられています。


いじりすぎると、耳あかを奥へ押し込んだり、耳の穴を傷つけたりするおそれもあります。


今回の実験では、耳あかが自分の重さの半分ほどの水を吸ってためられることも分かりました。


研究チームは、この性質が鼓膜を乾いた状態に保ち、外耳炎を防ぐのに役立つかもしれないとみています。


耳あかのついた綿棒に、バツ印をつけた画像です。医師は、綿棒で耳あかを取らないよう勧めています。 / Credit: Beat Ruest / Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

耳あかは何のためにあり、取るべきなのかを解説した TED-Ed の動画です(英語)。



動画: TED-Ed「What is earwax — and should you get rid of it?」(Henry C. Ou)


もっとも、この研究にはまだ限りがあります。


脚の力をはかる実験は1回に何時間もかかり、試せたのは7回だけでした。


耳あかと水、細菌の関係のように、まだよく分かっていない点も残っています。


それでも研究チームは、この成果が環境にやさしい虫よけの壁づくりに役立つかもしれないと考えています。


店で見かける虫よけには、ハエ取り紙のように虫をくっつけるものや、薬で虫を殺すものがあります。


耳あかは、危ない薬を使わず、その作りによって虫の脚を止めていると考えられるのです。


片耳に米粒1つほどしかない耳あかは、薄く広がることで、虫の脚を滑らせる壁になっているのかもしれません。


写真で見るアリと耳







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参考文献

Earwax is both slippery and sticky – this weird combo might lead to safer insect repellents (The Conversation)
https://theconversation.com/earwax-is-both-slippery-and-sticky-this-weird-combo-might-lead-to-safer-insect-repellents-293324

元論文

Earwax as pest control
https://doi.org/10.1039/d6sm00737f

ライター

山下 浩介: むずかしい研究を、なるべく分かりやすく伝えたい。専門の言葉はふだんの言葉に置きかえて、身近な例で例える。それで「わかった」「楽しかった」と言ってもらえたら嬉しいです。
好きなのは、通学路や台所や日常の中にある科学。眠っているあいだに記憶が整理される話や、虫の鳴き方に意味がある話のように、読み終わったあとに誰かへ話したくなる研究を探しています。

編集者

ナゾロジー 編集部

情報提供元: ナゾロジー
記事名:「 耳あかはアリの脚を滑らせ、体にはしつこくくっつく物質だった 」