AIがチェスで圧勝する理由の一端が見えてきた――「ややこしいまま耐える」時間が人間より長い
「考えることが多すぎる。いったん状況をスッキリさせたい」
チェスや将棋で、駒の攻防が複雑に絡み合ったとき、そんな気持ちになったことはないでしょうか。
では、強いAIは、そのような局面をどう扱っているのでしょう。
オーストリアの複雑系科学ハブ(CSH)とイタリアのパルマ大学の研究チームが、人間とAIの対局記録を比較したところ、人間同士の対局では盤面が比較的早く整理される一方、強いAI同士では複雑な攻防がより長く続くことがみえてきました。
研究者は「人間とAIは、単に強さが違うのではありません。複雑さの扱い方が違うのです。人間はそれをすぐに減らしますが、AIは保ち続けることができます」と述べています。
研究内容の詳細は2026年9月11日に『APS Open Science』にて発表されました。
目次
- 「取れるのにとらない状況」をいつまで耐えられるか?
- 人間は定跡が尽きると緊張を早々に解消しようとするがAIは違った
- 人間もAIも強くなるほど緊張を積み上げる
「取れるのにとらない状況」をいつまで耐えられるか?
チェスや将棋では、互いの駒がにらみ合いになり、ある一手によって連鎖的に駒の取り合いに発展するような場面が多く起こります。
たとえば目の前に、取れそうな相手の駒があるとします。
しかし、それを取ると、今度はこちらの駒が取り返されてしまい、その相手の駒を、さらに別の味方が狙っている――。
1つの駒取りをきっかけに、取っては取り返すやりとりが連鎖的に起こり得ます。
こうした関係があちこちに重なると、ひとつの駒だけを見て次の手を決めるわけにはいきません。
ひとつの取り合いをきっかけに、別の場所の攻防まで動き出す可能性があるからです。
特に初心者ならば、こうしたにらみ合いの緊張に我慢できないことも多いでしょう。
たとえば将棋なら「角の道をお互いに開けあった瞬間、相手の角を一気に取りに行ってしまう」という場合もあるかもしれません。
(※実は筆者もそうでした。角道が開くとすぐに相手の角をとり、角交換をしてしまいます)
しかしこうした誘惑は、決して素人だけのものではありません。
遥かに高度なレベルにあるプロでも「駒を取り合って状況を変えるか、それとも互いににらみを利かせたまま、別の手を指すか」といった判断は常に行っています。
こうした「取れる・取られる」関係が、決着のつかないまま盤上のあちこちで絡み合っている状態を、チェスでは「緊張(テンション)」と呼びます。
ではAIはどうなのでしょうか?
現在、チェス用の専門AIに人間が勝つのはほぼ不可能になっています。
将棋においても、人間のトッププレーヤーがAIに勝てる見込みはほぼありません。
定番の説明は、「AIは人間よりはるかに速く、深く先を読めるから強い」というものです。
確かにその説明は事実です。
ただ「人間より速く深く先を読める」というAIの性質が、盤面の上において、どんな姿で現れてくるかは、意外とわかっていませんでした。
そこで今回研究者たちは、チェスにおける「緊張」という概念に着目しました。
人間とAIの差が「いつ整理し、どこまで残すか」という部分に出てくるかもしれないからです。
人間は定跡が尽きると緊張を早々に解消しようとするがAIは違った
取り合いの連鎖をギリギリ踏みとどまる「緊張」の状態について、人間とAIで扱いの差はあるのか?
謎を解明するため研究者たちはまず、トップクラスの人間の1200戦のデータと、Stockfish(ストックフィッシュ)などの強力なチェスAI同士の1200戦のデータを用意しました。
次に研究者たちは、一手ごとに盤面を「駒の関係図」へ置き換えました。
相手の駒を取れる関係、味方が取られたら取り返せる関係、さらに空きマスへのけん制といったつながりの構造から、戦略的緊張の強さを計算したのです。
すると、人間同士とAI同士で興味深い違いが見えてきました。
序盤から中盤にかけて、互いの駒が近づくと、人間もAIも「緊張」のパラメータは上昇していきます。
しかも、一時的なピークは人間のほうがAIを上回っていました。
ところが、その後、人間の対局では緊張が比較的急速に下がっていきます。対照的に、AI同士の対局では下がり方が緩やかで、攻防が絡み合う状態が長く残りました。
ある意味でAIは何手もかけてじわじわ効いてくる有利を盤面のあちこちに散らしたまま、張りつめた局面を長く保ち続けるように戦っていたと言えるでしょう。
複雑な局面は人間同士の戦いでも作れますが、違いはそれをどれだけ持続するかにあったのです。
この差は、駒を取る頻度にも表れています。
主な比較対象で、駒を取る手の平均的な割合は、人間が20.2%だったのに対し、AIは13.0%でした。人間同士の対局のほうが、より頻繁に駒を盤上から取り除いていたわけです。
そのため、AI同士の対局には、平均するとより多くの駒が残っていました。そして攻撃や守りのつながりも、盤面に広く保たれていたのです。
では、なぜ人間も序盤には高い複雑さを保てたのでしょうか。
研究チームは、その背景に、長年研究されてきた序盤の指し方があると考えています。トップ選手は有力な手順を深く研究し、覚えています。いわば、複雑でも「よく知っている道」なら進めるのです。しかし、覚えていた展開を離れ、自分で先を読む段階になると、盤面を整理する傾向が強まると解釈しています。
研究著者のヴィト・D・P・セルヴェディオ氏は「違いは、複雑さの扱い方にあります。人間はすばやく減らしますが、AIは維持できます」と述べています。
人間もAIも強くなるほど緊張を積み上げる
次に研究者たちは、同じ手数までに積み上がる「緊張」の合計を、様々なケースで調べてみました。
すると、人間でも棋力が高い選手ほど、考える時間が長いほど、その合計は大きくなりました。
たとえば1人3〜5分の早指しより10〜25分の対局のほうがわずかに高く、1人60分以上をかけることも多い本格的な対局では、トップ棋士が人間で最も高い値を記録しました。
考える時間が長いほど、人間もより複雑な局面を抱えておけるわけです。
AIでも似た傾向がありました。Stockfishの先読みを深くする実験では、浅い先読みよりも、対局中に維持される緊張の合計が高くなる傾向が見られたのです。
そして、強力なコンピューターで指される大会のAI同士の対局は、トップ棋士の本格的な対局さえ上回る値を示しました。
これらの結果は、複雑さを保つことが、考える能力や余裕と結びついていることを示唆します。
そして人間がAIに緊張レベルが及ばない原因として、人間が盤面を整理する背景に、記憶や注意力の限界があると考えています。
(※研究者たちによれば、強い人間ほど危険な定跡を深く覚え込み、あえてその複雑な局面に相手を引き込んで、相手の頭に負担をかけているといいます。)
一方、AIが複雑な攻防を残すことには、後の選択肢を保つ意味があるのかもしれません。
研究チームは、AIが張りつめを保つことで目先の得をあえて先送りにし、対局の後半になって初めて姿を現す有利の芽を育てているのではないかと考えています。
そして、そうした長期的な選択は、豊富な計算能力が支えている可能性を挙げています。
セルヴェディオ氏は「強いAIは多くの可能性を同時に抱えておけますが、人間はそれらの絡み合いをすべて管理するのが頭の重荷になるため、しばしば局面を単純にするのです」と説明します。
もっとも現段階では「張りつめを保つ指し方=AIの強さの原因」とまでは言い切ることはできません。
強い人間やAIほど緊張を保つという関係は見えましたが、緊張を保つから強いのか、強いから緊張を保てるのかは、今回のデータだけでは見分けられないからです。
それでもセルヴェディオ氏は「私たちの結果は、複雑さを保つこと自体が戦略上の資源であることを示唆しています」と述べています。
さらに論文は、こうした人間とAIの違いが、人間を教えたり練習相手になったりするAIの設計にも関わると指摘しています。
人間の練習相手になるAIには、強さだけでなく、人間らしい緊張の扱い方まで求められるのかもしれません。
研究チームが次に見すえているのは、チェス盤の外の世界です。
外交や軍事計画、金融市場のように、世界で最も難しい決断の多くは、刻々と形を変える無数の可能性の網の中で下さなければならない、とセルヴェディオ氏は言います。
人間なら片づけてしまう複雑さを抱えたまま考え続けるAIが、こうした重大な決断の場に加わったら、何が起きるのか。
チェスから見えてきた人間とAIの差は、その答えを探る手掛かりになるかもしれません。
元論文
Artificial intelligence sustains higher strategic tension than humans in chess
https://doi.org/10.1103/63cv-52fj
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。
大学で研究生活を送ること10年と少し。
小説家としての活動履歴あり。
専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。
日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。
夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部