記憶は注射できるのか? アメフラシが見せた衝撃
もし誰かの記憶を注射一本で受け取ることができるとしたら、あなたはどうしますか?
試験勉強なんてやらずに済むし、危険な場所も一瞬で避けられるかもしれません。
そんなことは夢物語のように感じますが、実は科学の世界では、長い間かなり真剣に研究されてきたテーマなのです。
例えば1960年代に話題になったのが、「プラナリア」という小さな生き物の実験です。
このプラナリアという生き物は、水の中で生活する細長く平べったい虫で、体を切っても再生することで有名です。
当時の研究者たちは、プラナリアに光を当て、その終わりに重なるように軽く電気刺激を与えるという訓練を行いました。
するとそのプラナリアは、「光が来たらイヤなことが起きるぞ」と学習して、光が当たると反応するようになります。
ここまでは普通の条件反射の学習ですが、話はここから妙な方向へ向かいます。
なんと研究者たちは、「学習済み」のプラナリアを細かく刻んで、それを「学習していない別のプラナリア」に食べさせました。
すると不思議なことに、食べた側のプラナリアも、その後の条件づけをより少ない試行で学ぶという報告が出たのです。
まるで、食べられたプラナリアの記憶が肉体に染み込んでいて、それが受け継がれたようにも見えます。
これと同じ頃、哺乳類でも似た研究が行われました。
ラットというネズミの仲間に特定の音を鳴らしながら餌を与え続け、「音が鳴ったら餌がもらえる」と学習させます。
その後、そのラットの脳から「RNA」という遺伝情報に関わる物質を取り出し、学習していない別のラットに注射しました。
すると驚くことに、何も教えていないラットが、音を聞くだけで餌皿に寄っていくようになったというのです。
しかし、こうした派手な話には落とし穴がつきものです。
その後の再現実験では、同じ結果を確認するのが難しく、研究は次第に「ほんとうに起きる現象なのか?」と疑われるようになりました。
では、こうした「記憶の受け渡し」や「記憶物質」という話は、すべてが単なる嘘や誤解だったのでしょうか?
実は、そう単純な話ではありませんでした。
最新の研究は、記憶そのものではなく「記憶の土台となる何か」が体を通じて運ばれる可能性を示しつつあります。
今回は、この不思議なテーマについて近年の研究成果をまとめてみました。
目次
- 記憶は注射できるのか? アメフラシが見せた衝撃
- 血は記憶を運ぶのか?
- 世代を超えた記憶の継承はあるのか?
- いま科学が言える、いちばん面白い答え
記憶は注射できるのか? アメフラシが見せた衝撃
まず、この「記憶の移植」問題を理解するためには、最近の衝撃的な研究である「アメフラシの実験」を知る必要があります。
アメフラシというのは海に住むナメクジの仲間で、体はブヨブヨしていて、はっきり言ってしまえばあまり可愛くない生き物です。
でも神経がとても大きくて単純なので、脳や記憶の研究には昔からよく使われています。
2018年の研究では、このアメフラシを使って「記憶らしきものが別の個体へ移るかどうか」を確かめようとしました。
まず研究者たちは、アメフラシの尾の部分に軽い電気ショックを繰り返し与えました。
すると当然アメフラシはびっくりして、体の一部を引っ込める防御反応を示します。
面白いことに、何度もショックを与えられると、その防御反応が長く続きやすくなってしまいます。
つまり、触られると引っ込みやすい状態になったわけです。
しかし、この実験の本番はここからです。
研究者たちは、そうした訓練を受けたアメフラシの中枢神経系から、RNAという分子を取り出しました。
RNAは、細胞の中で情報を運ぶ役割を持っている、とても重要な物質です。
そのRNAを、今度はまったく電気ショックを受けていない別のアメフラシに注射しました。
するとなんと、電気を受けていないはずのアメフラシまで、体を引っ込める防御反応を強く示したのです。
これはまるで、「電気ショックを受けたアメフラシの経験が、RNAを通じて別のアメフラシに移った」ように見えました。
論文では、別に培養した感覚神経細胞にそのRNAを加えると実際に興奮しやすくなったことも報告しています。
しかし、これを「思い出そのものが引っ越した」と考えるのは、ちょっと早すぎるでしょう。
実際に起きたのは、「怖い記憶そのもの」が移ったわけではなく、「怖がりやすい体質」が移ったような現象でした。
わかりやすく言えば、誰かが怖い映画を見た後、その映画の詳しい内容はわからなくても、怖いシーンでドキドキしやすくなっている状態だけが別の人に移ったような感じです。
つまり記憶の細かな場面や出来事が移動したわけではなく、「危険を感じやすい反応の強さ」が引き継がれたということです。
これは非常に重要な違いです。
つまり、この研究が示したのは、「記憶そのものをコピーする」という派手な現象ではなく、「脳や神経の中に、感覚や反応を強める何らかのスイッチがあり、そのスイッチの設定がRNAを通じて他者に伝えられる可能性」です。
そして、こうした「反応しやすさ」や「学習しやすさ」が、体の中で物質を通じて伝わるというアイデアは、実は他の研究でも支持されています。
血は記憶を運ぶのか?
記憶や体験が体の中を物質として移動する、という話を聞くと、「じゃあ血液でも記憶が運べるの?」と思うかもしれません。
SF映画やホラー小説などでは、血を吸った相手の記憶が流れ込んでくるようなシーンが出てきたりしますよね。
しかし、現実の研究が示すのは、そういう派手なストーリーとはかなり違います。
実際の研究はもっと控えめですが、ある意味でより驚きの内容です。
2014年、米国の研究チームが、老齢マウスを若い血にさらしたり若い血しょうを投与したりしたところ、老齢マウスの脳の働きや記憶課題の成績が改善することがわかりました。
老齢マウスは人間で言えば、おじいさんやおばあさんくらいの年齢です。
普通なら、記憶力が落ちてしまった脳を若返らせるのは難しいと思われています。
ところが若い血しょうを受けた老齢マウスは、場所や文脈を覚える課題の成績が目に見えて良くなったのです。
では、血液が「若者の記憶」をそのまま運んできたのかというと、実際はそうではありません。
血液が運んだのは、具体的な記憶内容ではなく、「脳の健康状態」を改善するための材料や信号のようなものです。
例えるなら、記憶という本そのものが届いたのではなく、本が読みやすくなるメガネや明るい照明が届いたような感じです。
この研究はその後も進んでいます。
2017年の研究では、赤ちゃんのへその緒の血しょうそのものを老齢マウスに投与すると、海馬の働きが回復し、学習・記憶課題の成績も改善しました。
その後、その効果に関わる候補の一つとして、特定の成分が注目されました。
さらに、2021年には「運動したマウスの血しょう」も似た効果を持つことが判明しました。
運動で変化した血しょう中の成分が、炎症を抑え、脳の調子を整えてくれたのです。
つまり、血液は「記憶のコピー」ではなく、「記憶を作りやすくする環境」を運んでいることになります。
特定の経験や思い出を丸ごと届けるのではなく、脳という畑が元気に育つための「肥料」のような働きをしているのです。
世代を超えた記憶の継承はあるのか?
ここまでは別の個体同士が直接影響を与え合う話でしたが、ここからは話がさらに広がります。
今度は「世代をまたいで記憶や体験が伝わる可能性」の話です。
つまり、父親の体験が子どもに何らかの形で引き継がれることはあるのか、ということです。
2014年、ある研究チームはオスのマウスに特定の匂いと電気ショックを結びつけて「この匂い=危険」と学習させました。
その後、このオスマウスの子どもや孫の世代を調べてみると、なんと一度も電気ショックを経験していない子や孫たちまで、その特定の匂いに強く反応しやすくなっていたのです。
さらに興味深いことに、子や孫の世代では、この匂いを感知する神経そのものが強化されていました。
育て方だけでは説明しにくく、2014年の研究では体外受精や里親実験から生殖細胞を介した継承が示唆され、2020年の研究では精子に含まれるRNAがその一因になりうることも示されました。
これは「父親の怖い体験」が具体的な記憶として子どもに伝わったのではなく、「特定の刺激に対して敏感になる傾向」が遺伝子とは別の仕組みで子孫に受け渡された、という現象です。
もっと身近な例えをすれば、父親が怖い経験をした時、その「怖かった気持ち」や「匂いそのものの記憶」ではなく、「怖い経験に備えやすいように子どもの脳の設定が変わった」と考えるとわかりやすいでしょう。
遺伝子のように、髪の色や目の色を決めるものとは違いますが、特別な設定変更のようなものが精子を通じて子孫に届く可能性がある、ということです。
実際、2020年の研究では、学習を経験したマウスの精子RNAだけを取り出し、まったく関係のない受精卵に入れるだけで、生まれたマウスが父親と同じ刺激に対して敏感になったことがわかっています。
これもまた「記憶そのもの」ではなく、「刺激への反応性」が伝わることを強調しています。
いま科学が言える、いちばん面白い答え
では最終的に、「ある個体から別の個体に記憶が移ることはあるのか?」という問いに、科学はどう答えるのでしょうか。
いまの科学が出している答えは、「ある意味ではYESだけど、みんなが想像するような派手な意味ではNO」です。
つまり、SF映画のように「昨日の楽しかった記憶」を注射で他人に移す、という現象はまだ確認されていませんし、かなり現実味が薄い話です。
しかし、「記憶そのもの」ではなく、「記憶をつくる土台となる感受性」や「刺激への反応性」、「脳が学びやすくなる状態」のようなものが物質を通じて移ることは、少なくとも動物研究では複数の系で示されています。
アメフラシの実験でも、若い血や血しょうを使った若返りの研究でも、父親の体験が子に伝わる研究でも、伝わっているのは「記憶の具体的な内容」ではなく、「脳の反応を決める設定」です。
例えるなら、記憶というのは映画のようなもので、映画そのものを丸ごと別の人の頭にコピーすることは難しいですが、「その映画が感動的に感じやすくなるように感受性を高める」ことや、「怖いシーンでより強く反応しやすくする」ことなら可能だ、ということです。
これが現代の科学が示している最も面白く、正直な答えです。
記憶そのものはまだ自由に受け渡せませんが、経験が脳だけではなく、血液や細胞の物質を通じて体全体に影響を及ぼし、さらにその一部は子孫にまで影響を残す可能性があるのです。
元論文
RNA from Trained Aplysia Can Induce an Epigenetic Engram for Long-Term Sensitization in Untrained Aplysia
https://doi.org/10.1523/ENEURO.0038-18.2018
Young blood reverses age-related impairments in cognitive function and synaptic plasticity in mice
https://doi.org/10.1038/nm.3569
Human umbilical cord plasma proteins revitalize hippocampal function in aged mice
https://doi.org/10.1038/nature22067
Exercise plasma boosts memory and dampens brain inflammation via clusterin
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04183-x
Parental olfactory experience influences behavior and neural structure in subsequent generations
https://doi.org/10.1038/nn.3594
Proximate causes and consequences of intergenerational influences of salient sensory experience
https://doi.org/10.1111/gbb.12638
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部