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この研究の出発点にあったのは、「赤ちゃんの泣き声に女性のほうが敏感である」という通説です。
たとえば、夜中に赤ちゃんが泣き出したとき、最初に飛び起きて対応するのは「母親」というイメージを多くの人が持っているのではないでしょうか。
育児経験者のあいだでも「夜中に赤ちゃんが泣いたときパパは起きないのに、ママはすぐ目を覚まして対応する」といった話はよく語られます。
こうした現象は、「女性は母性本能があるから赤ちゃんの声に敏感で、男性にはその能力がない」などと説明されることがあります。
2009年にはイギリスの研究チーム(MindLab)が、睡眠中の男女に様々な音を聞かせる実験を行ったところ「赤ちゃんの泣き声で起きる割合は、女性のほうが圧倒的に高かった」「男性はむしろアラーム音や車の音のほうに反応した」と発表し、メディアで大きく報道されました。(ただし論文発表はされていない)
こうしたエピソードや通説が積み重なり、現在でも「母親は本能的に赤ちゃんの声に反応するが、父親は気づかない場合が多い」という印象が広く知られているのです。
しかしそれが本当に人間に備わっている“性差”なのかどうか、はっきりした証拠はこれまでありませんでした。
そこで今回の研究チームは、子どもを持っていない成人男女142人を対象に、睡眠中の脳の反応を調べる実験を行いました。子どものいない男女を調べた理由は、男女の間に生まれつきの“聴覚的な感受性の違い”があるかどうかを明らかにするためです。
実験では参加者たちの脳波(EEG)を測定しながら寝てもらい、睡眠中にさまざまな音を聴かされました。その音の中には、赤ちゃんの泣き声や普通の話し声、アラーム音などが含まれています。
注目したのは、脳がどの音に反応して「目を覚ましやすいか」という点です。
さらに研究チームは、こうした生理的な反応の違いが実際の育児行動にも反映されているのかを検証するために、子育て中の夫婦117組にも協力を依頼しました。
このグループには、夜間に赤ちゃんが泣いたとき、どちらがどれだけ対応したかを日々記録してもらい、実生活での行動の偏りと、実験で得られた覚醒反応との関係を調べました。
ではこの実験の結果はどうなったのでしょうか?
実験の結果、最も小さな音――たとえばささやき声のようなごく弱い音――に対しては、女性のほうが男性よりわずかに反応しやすい傾向がありました。
実際、女性は男性よりこうした音に対して約14%多く覚醒反応を示していました。
しかし、赤ちゃんの泣き声のようにある程度の音量がある音に対しては男女の間にほとんど差が見られなかったのです。
つまり、赤ちゃんの泣き声をきっかけに目を覚ましやすいかという点においては、男女の聴覚に機能的な違いはないと考えられます。
一方、実際の育児場面では、赤ちゃんの夜泣きに対応する回数は、母親のほうが父親の約3倍多くなっていました。
研究者たちはこれを「聴覚の差」では説明できないと結論づけています。
つまり少なくとも、音量が一定以上であれば、男女の反応には大きな差はなく、「女性は本能的に赤ちゃんの声に反応する」という事実は存在しない可能性が高いのです。
これは夜中に赤ちゃんが泣いた場合、なかなか男性側が対応してくれないという問題や印象に対して生まれた通説であり、実際は聴覚の問題ではなかったということになるのでしょう。
こうした育児経験者の体験談や印象による話しが、いつの間にか科学っぽい通説になってしまったというのが「男性は赤ちゃんの声に気づきづらい」「女性は母性で赤ちゃんの声を察知しやすい」という話の真相のようです。
今回の研究は、「聞こえるかどうか」は性別で決まるものではなく、むしろ状況や意識の違いによって左右される可能性の方が高いことを示しています。
赤ちゃんの泣き声をきっかけに反応する覚醒機能は、男女どちらにも等しく備わっています。そう考えると、これまでとは少し違った目線で育児をとらえ直せるかもしれません。
参考文献
Myth busted: Study finds men don’t sleep through baby cries after all
https://medicalxpress.com/news/2025-07-myth-men-dont-baby-cries.html
元論文
Men and women’s waking patterns to infant crying: Preparenthood differences are insufficient to explain uneven sharing of nighttime care
https://doi.org/10.1037/emo0001478
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部