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ANITAは、宇宙から飛来する高エネルギー粒子、特にニュートリノと呼ばれる素粒子を捉えるために設計された装置です。
観測は、南極上空およそ35キロメートルを飛ぶ巨大な気球に搭載されたアンテナを使って行われます。
南極の氷は広大で不純物も少なく、こうした高エネルギー粒子が氷と衝突した際に生じる微弱な電波(これを「電波パルス」と呼びます)を非常にクリアに捉えることができる、いわば天然の観測スクリーンなのです。
通常、このような観測では、宇宙から飛んできた粒子が氷に突入し、そこから電波が反射して上空に届く、というのが想定される典型的なパターンです。
実際、ANITAもそのような反射パターンの電波を多数検出してきました。
ところが2006年と2014年の観測中、まったく別の方向からの電波が2回観測されたのです。
その電波は、明らかに「下から上に向かって」飛んできており、しかも反射ではない“直撃”のような形状を持っていました。
つまり、観測された電波は「氷の下、つまり地球の内部」から飛び出してきたように見えたのです。
この観測結果は標準理論では説明が難しいため、物理学者たちの注目を集めることになりました
なぜなら、もしその電波がニュートリノによるものだとすれば、そのニュートリノは地球を6000km以上も突き抜けてきた上で氷のすぐ下で反応したことになるからです。
しかし、現在の標準的な物理理論では、ニュートリノといえどもそれだけの距離を突き抜ける確率は極めて低く、しかもそのような高エネルギーイベントは、別の巨大観測装置(IceCubeやピエール・オージェ観測所)でもすでに検出されているはずですがそのような記録はありません。
つまりこの観測は、従来の理論で説明できない“異常事象”だったのです。
ANITAの観測チームはこの電波を「アノーマラス・イベント(異常事象)」と呼び、詳細な解析を行いました。
しかし反射の可能性、氷の構造による屈折、ノイズや装置の誤作動といった仮説をいくつも検討しても、どうしても説明がつきませんでした。
それ以来、この“地下から飛んできたように見える電波”は、未知の物理現象や新しい粒子の存在を示す手がかりではないかと、世界中の研究者の関心を集めてきたのです。
ANITAの観測からすでに10年以上が経過していましたが、それでも今回改めて注目を集めたのは、「あの電波が本当に地球の中から来たものだったのか?」という疑問に、別の観測装置から答えを出そうとする試みがあったからです。
つまり今回の研究は、「この現象に再現性はあるのか」「ほかの場所でも観測されているのか」を丁寧に調べる追試検証として実施されたものなのです。
検証は、南米アルゼンチンのピエール・オージェ観測所(Pierre Auger Observatory)が2004年から2018年までに蓄積した膨大な宇宙線データをもとに行われました。この施設は、世界最大級の宇宙線観測所として、15年以上にわたって地表で発生する高エネルギーな「空気シャワー」と呼ばれる現象を約700万件以上記録しています。
研究チームは、このデータの中から「ANITAが観測したような現象――つまり、地表から空に向かって突き抜けるような高エネルギー粒子の痕跡が含まれていないか」を慎重に調査しました。
しかし、明確に「上向きの空気シャワー」と呼べる現象はほとんど見つかりませんでした。
唯一、条件に合致しそうな1件のイベントが検出されましたが、詳細に調べた結果、それは上向きの信号ではなく、通常の下向きの宇宙線が地表で散乱し、偶然そのように見えただけである可能性が高いと判断されました。
さらに研究チームは、仮にANITAが検出した信号が既知の素粒子、たとえば「タウニュートリノ(τ neutrino)」によるものであったと仮定した場合、そのような現象はピエール・オージェ観測所でも数十件以上観測されているはずだという理論モデルを構築しました。
しかし実際には、そうした一致するデータはまったく検出されなかったのです。
この結果から、研究チームは、ANITAが観測した“上向きの電波パルス”は、既存の素粒子理論に基づく説明では再現できない、という結論に至りました。
ただし、これは「ANITAの観測が間違いだった」と断定したわけではありません。
研究チームは、信号が本物である可能性を尊重した上で、それが自然界における未知の現象によるものだったのか、それとも観測装置の構造や反射・屈折・ノイズといった“測定系由来の異常”だったのか、現時点では判別できないとしています。
つまり、「自然の新たな物理現象」だった可能性と、「装置が生み出したアーチファクト(測定誤差的な偽の信号)」だった可能性の両方が、いまだに排除できないのです。
他のどの観測装置でも同様の信号が一切検出されていないという点は、「地中から未知の粒子が飛び出してきた」といった突飛な解釈に対しては、一歩立ち止まって慎重な検証が必要であることを示しています。
とはいえ、科学には“すぐに解けない謎”もあります。
もしANITAが本当に新しい自然現象を捉えていたとしたら、それは極端に一時的で、極めて局所的な条件でしか発生しない、非常にレアな事象だった可能性もあります。
では、仮に――本当にあれが自然界における何らかの“異常現象”だったとしたら、それはどのようなものだと考えられるのでしょうか?
考えられる仮説の1つは、それが氷床の内部で偶然に発生したプラズマ放電や、地下岩盤との摩擦による高エネルギー放射、あるいは雷や地熱との複合的な相互作用など、これまでに知られていない自然電磁現象が一瞬だけ発生したのかもしれないというものです。
あるいはもっと大胆に想像すれば、地球内部に未知の構造体や物質塊が存在していて、そこから何かが“放射”された可能性もゼロではありません。
たとえば、暗黒物質(ダークマター)の微小な塊が地球内部に衝突していたとすれば、それが一瞬だけ通常物質と反応して特異な信号を発した――というようなSF的な仮説も、理論上は存在しています。(Heurtier et al., Phys. Rev. D,2025)
さらには、空間構造が一時的にゆがんだことで、時空間の裏側から粒子が漏れ出すような、極端にエキゾチックな仮説も完全には否定できません。
もちろん、こうした仮説は現実の証拠がほとんどなく、あくまで“理論的可能性”の域を出ません。
それでも、「なぜ他の装置では見えなかったのか」「なぜANITAでだけ検出されたのか」という問いは、今後の観測機器や理論構築の方向性を大きく左右する貴重な検討材料となるでしょう。
今回の研究が示したのは、「何が起きたのか」を証明することではなく、「何ではなかったのか」を明確にした点にあります。
科学の世界では、“異常値”そのものよりも、それをどう扱うか、どう再現しようとするかの姿勢が、次の大きな発見につながるのです。
そしてこの謎の電波パルスもまた、未来の物理学者たちが“宇宙の法則”を書き換える可能性を秘めた断片かもしれません。
今回の研究は、これまでの物理法則に従えば、今回のような上向き電波パルスが繰り返し観測されることはありえないと結論づけています。
それでも、ANITAが観測した異常信号が完全に無視できるものだとは限りません。
それはもしかすると、既存の物理理論ではまだ説明できない何かがこの宇宙には存在することのヒントかもしれません。
地球の裏側から飛び出してきたように見える信号――それは、自然が私たちに送ってきた“まだ知らぬ世界”へのメッセージなのかもしれません。
参考文献
Strange radio pulses detected coming from ice in Antarctica
https://phys.org/news/2025-06-strange-radio-pulses-ice-antarctica.html
元論文
Search for the Anomalous Events Detected by ANITA Using the Pierre Auger Observatory
https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.134.121003
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部