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私たちが日常で目にする物質の多くは、原子の中心にある陽子や中性子から成り立っています。
これらの粒子をさらに詳しく調べますと、その内部には「クォーク」と呼ばれる、陽子直径のおよそ1万分の1という極めて小さな粒子が3個ずつ、しっかりと結びついていることが分かっています。
クォーク同士をつなぐのは「強い力(量子色力)」と呼ばれる自然界最強の結合力で、その働きはグルーオンという媒介粒子によって、いわば“力の糸”として伝えられています。
この力の糸は太いゴムひもにたとえられます。
2つのクォークを引き離そうとすると、ゴムひもが伸びるときと同じように、その糸にエネルギーが蓄積され、張力が際限なく高まります。
この糸は、ゴムひもを強く伸ばしても太さが変わらないのと同じで、張力そのもの――たとえば 1 ギガ電子ボルト毎フェムトメートル程度――はほぼ一定です。
ところが距離を広げるほど、その一定張力が仕事をし続けるため、糸に蓄えられるエネルギーは「長さに比例して」増え続けます。
言い換えれば、1メートル伸ばすには1センチ伸ばすのに100倍(1メートルは1センチの100倍だから)のエネルギーが必要になる、という直線的な累積です。
「何を当然のことを言うのか?」と思った人……率直に言って、あなたはきっと物理が苦手なのでしょう。
磁石を思い浮かべればわかりますが、通常の粒子の結びつきは離せば離すほど、引き離しに必要な力は減っていきます。
しかしクォークの場合はそれがずっと一定なため、引き離しに膨大なエネルギーがかかったままなのです。
そう考えるとクォーク引き延ばしにかかるメカニズムがいかに異常かがわかるでしょう。
そして通常の輪ゴムならば張力が限界に達すると、切れてしまいますが、自然界最強の結合力は伊達ではありません。
限界時の挙動も全く異なるのです。
クォークに対して切れるくらいにエネルギーを注ぎ込むと、そのエネルギーがあまりにも大きいため周囲の真空(何もないと思われがちな空間)を揺り動かし、新しいクォークと反クォークのペアを瞬時に生み出します。
そしてもともと伸ばされていた糸は二本の新しい糸へと分かれ、元のクォークは現れたばかりの相棒と再び結びつきます。
そのため自然界最強の結合力は絶対に切れない……というわけではありませんが、切れるほどのエネルギーを注ぐことで新たなペアができてしまうわけです。
つまり、どれほど強い力でクォークを引き離しても、単独のクォークが外へ飛び出すことは決して起こりません。
この「糸を切ろうとするほど、切り口から新たなペアが湧き出て、結局クォーク同士が再び対を組む」という仕組みこそが「閉じ込め」と呼ばれる現象です。
大型加速器で高エネルギーの衝突を起こしても、検出器に現れるのは、こうして糸で束ね直された多数のハドロンがシャワー状に飛び出した姿(いわゆるジェット)だけとなります。
閉じ込めがどのように成り立ち、糸の生成や断裂がどのように進むかを数式だけで厳密に追いかけるのは非常に難しく、従来のスーパーコンピューターでも完全な解析は困難でした。
(※いくら離しても引き離しにかかる力が一定という異常さを再現するのが計算で極めて困難だからです)
そこで近年は、量子コンピューターを利用してこの壮大な力学を“机上の実験”として再現し、リアルタイムで可視化しようとする取り組みが進んでいます。
量子デバイス内部に“ミニ宇宙”を作り、ゲージ理論をそのまま縮小コピーすれば、ひもが張り、たるみ、切れるまでをリアルタイムで観察できます。
実際、一次元(線状)のモデルなら、イオントラップや小型量子回路で既に成功例がありますが、平面に広げると糸は左右にも揺れて絡み合い、難易度が跳ね上がります。
そこで今回の研究では、これまで手が届かなかった二次元世界に量子計算機で踏み込み、「(2+1) 次元のゲージ理論で弦が生まれ、引き伸ばされ、そして切れる」一連のドラマを初めて可視化することにしました。
ミュンヘン工科大学のミヒャエル・クナップ教授は「量子コンピューターという顕微鏡を得て、宇宙の基本法則を実験室サイズで検証できる時代が始まりました」と語り、量子技術が理論物理を“机の上の実験”へ変える力を強調しています。
いったいどうやってクォークの輪ゴムは伸びていくのでしょうか?
今回の挑戦には、性格のまったく違う2台の量子コンピューターが投入されました。
ひとつは米クエラ社の中性原子シミュレーター「Aquila」。真空中に浮かべた数十個のルビジウム原子を光のピンセットでハチの巣(カゴメ格子)状に並べ、原子どうしの自然な相互作用をそのまま“強い力”の模型に仕立てるアナログ型です。
もうひとつはグーグル社の超伝導チップ「Sycamore」。指令どおりに量子ビットへゲート操作を刻み、数式どおりに時間を進めるデジタル型です。やり方は対照的ですが、どちらも目標は同じ――「2次元+時間」のミニ宇宙で、“見えないゴムひも”が伸びて切れる瞬間をとらえることでした。
Aquila では、隣り合う原子が同時に励起できない “リュードベリブロッケード” を利用し、原子列そのものにゲージ対称性を持たせました。研究チームはまず格子上に“+電荷”と“-電荷”の役を演じる2個の原子を置き、両者を結ぶ力の糸(フラックスチューブ)が最も落ち着く基底状態を準備。そこからレーザー周波数を少しずつ変えて糸をぎゅーっと引き伸ばす実験を行いました。
すると張力が限界を超えた瞬間、糸はブチッと切れる代わりに 「真空からペア誕生」 を起こして2本の新しい糸に早変わりしまさに理論で予言されていた弦の破壊の実写版が確認できました。
この過程を研究者はサブマイクロ秒(数百ナノ秒〜数マイクロ秒)という目にも留まらぬ時間分解能で追跡し、「数十量子ビット規模でもリアルタイム動画が撮れる」と実証しました。
第一著者ダニエル・ゴンサレス=クアドラ博士は「2次元という“揺れ放題”の舞台で糸が切れる様子を直接見られたのは、とびきりの一歩です」と語り、共同最終著者アレクセイ・バイリンスキー氏も「オープンアクセスの原子ハードウェアが、理論だけだった問題を実験テーマへ格上げしました」と胸を張ります。
一方の Sycamore では、平面格子に並んだ超伝導量子ビットで Z2 ゲージ理論 をプログラムし、まず“静かな基底状態”を用意。そこから 電場の強さに相当する結合定数をゆっくり変えてシミュレーションを進めると、はじめはほとんど張力を感じない2個の電荷の間に、次第にゴムひものような糸が張り始め、ついにはピンと張った閉じ込め状態へと滑り込む様子が観測されました。ひもが弱いときにはふにゃふにゃ揺れ、強いときにはギター弦のように固くなる――二次元ならではの横揺れと剛直さのグラデーションまで捉えた点が新鮮です。
さらに設定を追い込むと糸のエネルギーが閾値を越え、真空が新しいペアを生んで糸を切り離すストリング破断も再現。共同リーダーのフランク・ポルマン教授は「場合によっては測定量がゼロになり、糸が消えたように見えるシナリオもあった」と語り、ペドラム・ルーシャン氏は「量子プロセッサーがゲージ理論を実験対象へ変える力を示せた」とコメントしています。
Aquila の “自然にまかせるアナログ” と Sycamore の “手順を刻むデジタル”――正反対のアプローチが、同じ物理現象を別々のレンズでとらえ、組み写真のように合致したこと自体が大きな信頼性の証明です。どちらの実験も、従来のスーパーコンピューターが苦手とする 「リアルタイム・二次元・強結合」 という三拍子そろった難題を突破し、量子コンピューターが“ひも物語”の映写機になり得ると示しました。
今回の二つの研究は、量子コンピューターが従来のスーパーコンピューターでは困難だった現象を再現し、「新しい発見のための道具」としての可能性を実証しました。
卓上サイズの量子実験で、巨大な加速器が生み出す素粒子反応のエッセンスを直接目に見える形で再現できたことは画期的で、高エネルギー物理と量子情報技術をつなぐ架け橋となる成果です。
研究者たちは、このような卓上実験から得られる知見が、将来的に格子QCD計算や加速器実験の解釈にも新しい直感をもたらす可能性があると期待しています。
一方で、専門家によればこれはあくまで実際の強い力の簡略モデルであり、本物のQCD(非可換ゲージ理論)を三次元で完全に再現するには依然ハードルが残るといいます。
現時点では「どうすればそこに到達できるか明確な道筋は立っていない」という指摘もありますが、それでも量子シミュレーション研究の進歩は著しく、「本当に驚くべき速さ」で進んでいると評価されています。
実際、今回の成果は将来のさらなる発展への第一歩に過ぎません。
研究チームは「ひも」が二次元空間で自由に曲がりうねる様子を可視化したことで、より複雑な非可換ゲージ理論(QCDなど)や未知のトポロジカル物質への拡張可能性を示す一歩になったと述べています。
これから量子ビット数が増え、手法が改良されていけば、量子コンピューター上でより現実に近い「強い相互作用」のシミュレーションが可能になるかもしれません。
両チームの同時報告は、量子技術と基礎物理学の融合に向けたマイルストーンといえます。
巨大な粒子衝突実験でしか観測できなかった現象を、机上の量子デバイスで再現し細部まで覗き見ることができる──そんな時代が現実味を帯びてきました。
研究者たちは「この手法によって、素粒子物理や量子物質、さらには宇宙の時空の本質にまでより深い洞察が得られる可能性がある」と述べており、量子コンピューターが今後の科学的発見に果たす役割の大きさを示唆しています。
今回の成果は、物質を構成する根源的な力のメカニズムに理解を深めるとともに、量子シミュレーションが科学研究の最前線にもたらす可能性を示したものです。
今後も量子コンピューターが様々な分野で新たな知見をもたらしてくれることが期待されます。
元論文
Observation of string breaking on a (2 + 1)D Rydberg quantum simulator
https://doi.org/10.1038/s41586-025-09051-6
Visualizing dynamics of charges and strings in (2 + 1)D lattice gauge theories
https://doi.org/10.1038/s41586-025-08999-9
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部