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ミトコンドリア病の中でもっとも一般的なものの一つが「Leigh(リー)症候群」です。
この病気ではミトコンドリア――細胞内で酸素を使ってエネルギーを作る小器官――がうまく働かず、体内に使い切れない酸素が過剰に蓄積してしまいます。
酸素は生命活動に必須ですが、過剰になると細胞を傷つけ、結果的に組織や臓器の機能が損なわれるのです。
グラッドストーン研究所のアイシャ・ジェイン(Isha Jain)博士による先行研究では、呼吸する空気の酸素濃度を下げる(高地レベルの低酸素環境を再現する)ことでLeigh症候群モデルマウスの寿命が大幅に延び、脳の損傷などの症状も改善することが示されました。
しかし、患者さんが標高4500メートルの地域に移住したり、特殊な装置で長期間にわたり酸素濃度を管理し続けるのは生活面・安全面で現実的ではありません。
そこでジェイン博士らは「低酸素の恩恵をより簡単・安全に得る方法はないか」と研究を続けてきました。
そこで研究チームが注目したのは、血液中で酸素を運ぶ「ヘモグロビン」というタンパク質です。
肺ではたっぷりと酸素を取り込み、全身の組織に運んでいく一方、組織に到達すると酸素を放出(オフロード)します。
このバランスによって私たちの体は必要な量の酸素を効率よく使えています。
一方で、ヘモグロビンが酸素を「離しにくい」状態になれば、組織へ届く酸素量は減り、“適度な低酸素状態”を体内で作り出せます。
そこで研究者たちは、鎌状赤血球症の研究などで開発された「ヘモグロビンの酸素親和性を高める化合物」の候補を探り、最適な分子を選定・改変して「HypoxyStat」を完成させました。
そしてLeigh症候群モデルのマウス(Ndufs4ノックアウトマウス)にHypoxyStatを投与すると、予想どおり組織への酸素供給量が抑えられ、次のような大きな改善がみられました。
1つ目は寿命が3倍以上に延びる点です。
本来なら生後7~8週間ほどで死亡するモデルマウスが、より長く生きられるようになりました。
2つ目は重度の脳損傷が回復し、神経症状も改善したことです。
Leigh症候群でみられた低体温や運動失調などの神経症状が大幅に改善され、脳損傷も抑えられました。
3つ目は病気の進行後でも効果があった点です。
すでに脳や筋肉に深刻なダメージがある段階から投与を開始しても、回復が認められました。
研究を主導したグラッドストーン研究所のスカイラー・ブルーム(Skyler Blume)氏は、「酸素を吸う量を減らすと聞くと不思議に思うかもしれませんが、Leigh症候群ではミトコンドリアが酸素を使いきれず、かえって細胞にダメージを与えるためです。
HypoxyStatがヘモグロビンと酸素の結合を強めることで、組織に行き渡る酸素を抑え、症状を抑制・回復させます」と説明しています。
従来の研究では、吸う空気自体の酸素濃度を下げる、いわゆる「ガスベースの低酸素療法」が中心でした。
しかし、装置の維持や安全基準の管理、酸素濃度の設定ミスによるリスクなどを考えると、臨床応用は容易ではありません。
一方、「血液側で酸素供給をコントロールする」HypoxyStatのような薬であれば、高地へ移住したり大がかりな装置を導入したりせずに済む可能性があります。
ただし、薬によって過度の低酸素状態が続いた場合、その影響をすぐにリセットできるか、また長期的に肺や心臓に負担がかからないかなど、安全面での検証が引き続き必要です。
今回の成果がまず期待されるのは、やはり重いミトコンドリア病の患者さんへの応用です。
しかし、研究者たちはその他の代謝疾患や心血管・脳疾患にも有望なヒントをもたらすと考えています。
実際、高地トレーニングがアスリートの持久力向上に役立つように、適度な低酸素状態には代謝改善効果などがあると示唆されています。
さらに、低酸素とは逆に「組織に酸素をより多く届ける」ためにヘモグロビンを操作する薬の開発も視野に入り、いわば“ガス療法の錠剤化”が今後さまざまな医療分野で注目される可能性があります。
「ガスベースの療法を“飲む薬”で実現する」という新しい発想はまだ初期段階ではあるものの、非常に有望です。
ジェイン博士らのチームは、より安全性の高い“次世代型HypoxyStat”の開発や長期的な影響の検証を進め、将来的には臨床試験へとつなげたいとしています。
もし実用化が進めば、患者さんはわざわざ山へ移住することなく、日常生活の中で“山の空気”の恩恵を受けられるようになるかもしれません。
今後の研究・開発の進展に大きな期待が寄せられています。
元論文
HypoxyStat, a small-molecule form of hypoxia therapy that increases oxygen-hemoglobin affinity
https://doi.org/10.1016/j.cell.2025.01.029
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部