ある日、はるか未来に宇宙が一瞬にして消滅してしまうかもしれない――そんなシナリオとして理論物理学で長らく語られてきたのが「真空崩壊」です。

私たちの宇宙が実は「偽の真空」に閉じ込められている場合、量子の揺らぎによってエネルギーがより低い“真の真空”が突然生まれ、その“泡”が光の速さに近いスピードで宇宙を塗り替えてしまうという、壮大かつ恐ろしい終末論です。

多くの理論では、もし真空崩壊(偽の真空から真の真空への遷移)が実際に起こると、現在の宇宙を支える「真空」の性質が根本的に変わると考えられています。

具体的には、現在の真空状態が持つエネルギー密度や場の期待値が変化するため、そこから導かれる物理定数(例えば、素粒子の質量、結合定数、さらには電磁気力や重力の強さなど)が変わる可能性があります。

その結果、今までの物理法則に基づいた現象—原子や分子の形成、化学反応、星や銀河の構造など—が、まったく異なる形で現れることになるかもしれません。

さらに、真空崩壊のバブルが光速に近い速さで広がると、バブル内では新しい物理法則が支配する領域が形成され、元の宇宙の構造は急速に置き換えられるため、既存の物質や生命が存在できなくなる可能性が高いとされています。

もちろん、もし本当に起こるとしても気の遠くなるほど先の未来と考えられていますが、ドイツのユーリッヒ スーパーコンピューティング センター(JSC)によって行われた研究によれば、この現象を“安全に”実験室で模擬することに成功したといいます。

研究チームは、5,564個もの量子ビットを搭載した量子アニーラ―と呼ばれる装置を使い、スピンが次々と反転していく様子を「泡」として観測し、まるでミニチュアの宇宙終末を再現するかのような実験に成功しました。

果たして、私たちの宇宙は本当に「偽の真空」の中にあるのでしょうか?

研究内容の詳細は2025年2月4日に『Nature Physics』にて公開されました。

目次

  • 宇宙の隠れた危機:真空崩壊
  • 実験室で可視化された真空崩壊
  • 果たして宇宙は崩壊するのか?

宇宙の隠れた危機:真空崩壊

宇宙の終末「真空崩壊」を量子実験でモデル化&再現することに成功 / Credit:Canva

宇宙は、あらゆるエネルギー状態のうち「いちばん低い」場所に落ち着いているように見えますが、実はもう少し高いエネルギーに閉じ込められているかもしれない――このような“本当は完全に安定ではない”状態が「偽の真空」と呼ばれます。

たとえば、鍋の中にある汲んだばかりの水を想像してみてください。

鍋の中の水は室温で一見安定して見えますが、外部環境(温度や圧力など)がガラッと変われば、急に冷水になったり、さらに低いエネルギー状態である氷に変わったりする可能性を秘めています。

つまり、見かけの安定には“もっと下の安定”が潜んでいるかもしれないわけです。

宇宙の偽の真空も、ちょうどその“鍋の中の水”にたとえられます。

いまの姿は安定そうに見えても、実はさらに低いエネルギーへと一気に移る可能性が消えていない――そんなイメージで考えると理解しやすいでしょう。

そして偽の真空が何かのきっかけで“真の真空”へ移行すると、その境目が光に近い速度で広がって世界を一変させてしまうかもしれない、というのが真空崩壊の基本的な考え方です。

理論上、この可能性は完全には否定できないため、宇宙が“実は不安定”だった場合のシナリオとして、何十年も前から物理学者の関心を集めてきました。

しかし、あまりにスケールが大きく、実際に目撃できる現象ではありません。

そこで近年は、研究室という小さな舞台で「似たような仕組み」が起きる現象を人工的に起こし、量子現象や相転移の知見を駆使して分析しようという試みが進められています。

真空崩壊の本質は、“ふだんは安定して見えるけれど、少しの刺激や量子揺らぎで一気に別の状態へ変わってしまう”という点です。

たとえば、水が零下でも凍らずに過冷却のまま保たれ、ちょっとした衝撃で一気に氷へと変化する現象が引き合いに出されるなど、日常的な準安定状態を例に取りながら、その背後にある量子力学的なメカニズムを探ろうというわけです。

しかし実際には、量子の世界と宇宙スケールを直接結ぶのは非常に難題でした。

そこで登場したのが、数千の量子ビットを扱える“量子アニーラ―”などの先端機器です。

これらの装置は、大規模な量子状態の変化を高速かつ可視的に捉えることができ、“真空崩壊”と似たような過程が起こる状況をスピン反転やバブルの形成として観測できます。

今回の実験的な成果は、まさに理論物理学が描いてきた壮大な終末シナリオを、手のひらサイズの量子デバイスのなかで安全に追体験しようとする試みであり、これによって私たちの宇宙そのものの性質を知る手がかりになるのではないかと期待されています。

実験室で可視化された真空崩壊

「真空崩壊」を研究するうえで多くの物理学者が目指してきたのは、実際の宇宙ではなく、もっと小さな系で“泡の生成”を再現することです。

本物の宇宙スケールで危険な現象が起きるわけではありませんから、あくまで「似たような仕組み」を実験室で観察し、そこから宇宙論のヒントを得ようというわけです。

今回注目されているのが、5,564個もの量子ビットを備えた量子アニーラ―という特殊な装置を使った「ミニチュア宇宙シミュレーション」です。

まず、研究者たちは全ての量子ビット(スピン)が“上向き”になっている初期状態を用意し、その後、磁場の方向を反転させることで“下向き”がエネルギー的に有利になる設定を作り出しました。

たとえるなら「これまで安定だった上向きワールドが、一瞬で不安定になり、今度は下向きが安定(真の真空)になった」という状況です。

すると、量子ビットが上向きから下向きへと変化する領域が“小さな泡”のように、ポツポツと現れ始めます。

さらに時間を置くと、この泡が周囲に広がり、大きな塊(クラスター)へと発展していく様子が観測されました。

一見すると、ただ「上向きのビットが次々と下向きになっていく過程を眺めているだけ」のようにも思えますが、違います。

ここに量子力学特有の繊細な現象が隠れています。

たとえば、泡が形成されるためには、単にエネルギーを下げるだけでなく、境界面(ドメインウォール)を作るコストやスピン間の相互作用が微妙に影響し合う必要があります。

そして、量子の揺らぎによって特定の大きさの泡が優先的に作られたり、泡同士が衝突して別のサイズに変化したりするメカニズムが、まさにこのデータから読み取れるのです。

実験では、泡の生成と膨張が「離散的(飛び飛び)のサイズ」で起こることが確認され、複数の泡がぶつかるときの相互作用も理論と矛盾なく再現されました。

宇宙の終末「真空崩壊」を量子実験でモデル化&再現することに成功 / 上の図は真空崩壊を再現するための実験の全プロセスを、エネルギー地形、実験手順、装置の構造、実際のスピン配置、そして時間発展の観測という多角的な視点から詳細に示しています。これにより、理論的に予測されていた泡の生成・拡大・相互作用のメカニズムが、量子アニーラ―という大規模量子デバイスを用いて、実験室スケールで実際に観測可能であることが明確に示されています。論文はこの結果を、宇宙の終末シナリオとして語られる偽の真空崩壊の理解を深めるための一歩として位置づけています。(a) エネルギーの山と谷 このパネルでは、横軸に全体の磁化(量子ビットの向きの平均)を、縦軸にシステムのエネルギーを描いています。 図には、ふたつのエネルギーの谷が見えます。ひとつは「偽の真空」と呼ばれる、見かけ上は安定しているけれど実はエネルギーが高い状態です。 もうひとつは「真の真空」といい、もっと低いエネルギーでシステムが落ち着く状態です。 (b) 実験の手順 このパネルは、実験がどのような手順で行われたかを示しています。 まず、全ての量子ビットを「上向き」に揃えて、偽の真空状態を作ります。 次に、磁場の設定を変えて、システムが新しい状態(真の真空)へと移るようにします。 そして、変化する様子を時間とともに観測し、どのように状態が変わっていくかを記録します。 (c) 量子ビットの配置 このパネルは、実験に使われた量子アニーラ―の内部構造を示しています。 装置には、合計で約5,600個の量子ビットがあり、そのうちのほとんどがリング状に並べられています。 この配置のおかげで、量子ビット同士が複雑に絡み合いながら実験が進められます。 (d) 実際のスピン状態 ここでは、実験で測定された量子ビットの状態の写真が示されています。 最初はすべての量子ビットが「上向き」で、偽の真空状態を表します。 その後、一部の量子ビットが「下向き」に変わり、小さな「泡」のような領域が現れ始めます。 時間が経つと、この泡は広がり、さらに大きな領域へと成長します。 (e) 時間とともに変わる磁化 このパネルでは、システム全体の磁化が時間とともにどのように変化したかが、カラフルなグラフで示されています。 ここからは、泡ができるタイミングや、どのサイズの泡が現れやすいかなど、細かな変化が読み取れます。つまり、ほんの小さな量子レベルでの現象が、もし実際の宇宙で起こるとすれば、星々や銀河さえも飲み込むほどの急激な変化につながる可能性があるということを、目で確認できるのです。Credit:Jaka Vodeb et al . Nature Physics (2025)

これまでの物理の理論では「一定のエネルギーバランスを満たす大きさ」ごとに泡が作られやすい、と予測されてきましたが、まさにその通りの現象が目の前の量子ビットから得られたデータに表れたわけです。

さらに、泡が大きくなるには隣り合った泡と“やり取り”をする必要があったり、小さな泡は移動しやすいけれど大きな泡にはなりにくい――など、複雑な振る舞いもはっきり映し出されています。

もし現実の宇宙で“真空崩壊”が本当にどこかで始まったなら、こうした量子レベルのトリガーから誕生したバブルが光速近くの速さでみるみる膨れ上がり、星々や銀河さえのみ込んでしまうかもしれません。

わずかな違いで安定を保っているかに見える広大な宇宙が、一瞬にして別の相(真の真空)に塗り替わってしまう――今回の実験結果は、まさにその驚くべきシナリオの“縮図”を目の前に示しているともいえるでしょう。

これらの結果は、真空が崩壊するときに起こる「最初の一滴」のような泡の生成から、複数の泡がどう広がり合うかまで、実験室スケールで直接追いかけることに成功したことを示しています。

理論的には長い間想定されていたメカニズムが、量子ビットの反転という目に見える形で初めて観測され、泡同士が衝突して形や大きさを変えていくダイナミクスまでも把握できるようになりました。

こうした観察から得られる知見は、従来の理論をさらに発展させる糸口となり、宇宙論だけでなく量子物理の基礎研究にとっても大きな意味を持つと期待されています。

果たして宇宙は崩壊するのか?

宇宙の終末「真空崩壊」を量子実験でモデル化&再現することに成功 / Credit:Canva

今回の実験で明らかになったのは、理論で長らく議論されてきた「真空崩壊」の鍵となるポイント――“泡が生まれてから大きくなるまでの過程”――を、量子ビットという人工的で制御しやすい場でリアルタイムに観察できるという事実です。

従来の研究では、気の遠くなるほど大きなスケールを想定するうえに、実際に確かめようのない宇宙現象を扱うため、どうしても机上の計算や数値シミュレーションに頼らざるを得ませんでした。

しかし今回、数千の量子ビットを使った実験により、 小さな“実験宇宙” を再現し、そこにおける泡の生成や相互作用を直接測定できたことは大きな一歩です。

もちろん、実際の宇宙が本当に偽の真空にあるかどうかは、まだ分かっていません。

しかし、今回のような研究は「もし真空崩壊が起こるなら、その始まりや広がり方はどうなるのか?」という問題に対し、新たな実験的な光を当ててくれます。

今後は、2次元・3次元に拡張したり、重力効果を加味したりすることで、より現実の宇宙に近い形でバブルのダイナミクスを探れるかもしれません。

また、同じ手法を別の量子現象や相転移の研究へ応用すれば、未知の領域を切り拓く可能性も期待されます。

結局のところ、「真空崩壊」の存在そのものについては、宇宙がいつか遠い未来に向かうシナリオの一つです。

多くの理論的予測では、現在の宇宙の年齢(約138億年)をはるかに超える、例えば10の100乗年という桁外れに長い時間スケールが想定されています。

(別の研究では、真空崩壊が起こるのは10の600乗年後とされるなど研究によって大きな差があります)

しかし、私たちが生きる時代にこのような大規模な量子シミュレーションが可能になったことで、単なる理論上の絵空事だった終末論を、より具体的かつ安全に“手元で”試せるようになりました。

これは、宇宙論・量子物理学の両面で画期的な成果であり、今後のさらなる実験やシミュレーションによって、宇宙の根源的な性質をより深く理解できる可能性を大いに示唆しているのです。

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元論文

Stirring the false vacuum via interacting quantized bubbles on a 5,564-qubit quantum annealer
https://doi.org/10.1038/s41567-024-02765-w

ライター

川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。

編集者

ナゾロジー 編集部

情報提供元: ナゾロジー
記事名:「 宇宙の終末「真空崩壊」を量子実験でモデル化&再現することに成功