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「もしも部屋の中を飛び回る分子のうち『速いもの』だけを右側へ、『遅いもの』だけを左側へ、魔法のように仕分けできたらどうなるだろう?」──19世紀の物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルは、そんな空想を思い描きました。
彼は、仕切りの小さなドアを自在に操作する「悪魔」を想定し、ドアの反対側に入ろうとする分子が『速い』か『遅い』かを瞬時に見分けて、速い分子だけを片側に集めてしまう、というのです。
普通、熱力学第二法則によれば、熱エネルギーが一方的に移動して温度差が自然に生まれることはありません。
けれども、この「悪魔」が素早く仕切りを開け閉めすれば、左側は低速分子ばかりで冷たい領域、右側は高速分子ばかりで高温の領域が勝手にできあがるかもしれません。
もしこんなふうに簡単に温度差を作れたら、温度差を利用してピストンを動かし、いくらでもエネルギー(仕事)を取り出すことができそうです。
言い換えれば、「何も燃やさずにエンジンを回せる」という、まさに第二法則を破るシナリオが頭に浮かびます。
この仕組みが「マクスウェルの悪魔」です。
そしてここから派生して生まれたのが、「悪魔エンジン」という着想です。
普通のエンジンの場合では
燃料の燃焼→ピストンを押し出して仕事を取り出し→排気して元の状態に戻す
という流れを何度も回して動力を得ます。
同じように、悪魔エンジンも
測定→フィードバック→メモリ消去
という流れをサイクルとして動かすことで、繰り返しエネルギーを取り出すかもしれない、というのが理論上の発想です。
測定のステップでは、悪魔は、ターゲットとなる物理系がどのような状態にあるか(たとえばどの分子の速度が速いか遅いか、量子状態が励起状態か基底状態かなど)を測定します。
このとき得られる情報は、悪魔がどんな操作をすればより多くの仕事を取り出せるかを判断するために使われます。
古典系ならば、高速の粒子と低速の粒子を見分けてドアをタイミングよく開くための情報を得る段階となります。
また、量子系ならば、粒子の情報を得る段階となります。
次のエネルギー取り出しのステップでは、得られた情報をもとに操作を行いエネルギーを取り出します。
古典系ならば片側に高速粒子を偏らせることでピストンなどを動かします。
あるいは量子系なら、エネルギーの高い状態を巧みに利用して外部へエネルギーを吐き出させることになります。
量子論では「粒子がどちらにいるか」ではなく、もっと別の量子状態(エネルギーやスピンなど)を測定して、それに応じて操作(フィードバック)を行うことができるからです。
簡単に言えば、古典系ではできないことをやって、ピストンを動かすためのエネルギーを古典系よりも効率よく抽出するわけです。
最後のステップは、悪魔がこの作業を行うために使用したメモリの消去です。
悪魔の正体が機械でも生物でも、記憶容量は有限です。
そのため、悪魔エンジンを永久に回すには、最初の測定で得られる情報を記録するための無限の記憶容量を用意するか、作業が終わったサイクルの記憶を消去して再び新たな記憶をできるようにしなければなりません。
当然、無限の記憶容量などは存在しないため、必然的に残りの不要な情報を削除する作業が必要になります。
悪魔エンジンの肝は、この三つのステップを繰り返し行う点にあります。
しかし、実際に科学が発展するにつれて、「この悪魔が測定を行い、記憶し、その情報を使うには何らかのコストがかかる」ことがわかってきました。
サイクルの各段階をエネルギーのプラス・マイナスで分類すると、
①測定段階はエネルギーマイナス(測定するためにエネルギーがかかるから)
②エネルギー取り出し段階はエネルギープラス
③メモリ消去の段階はエネルギーマイナス(メモリ消去にもエネルギーがかかるから)となります。
さらに量子力学の発展によって、コストとリターンの関係がリターン側に傾く現象があることがわかってきました。
量子の世界の不思議な粒子の挙動には、古典物理では説明不可能なものがあり、この量子世界の不思議をマクスウェルの悪魔が取り込むことで、熱力学第二法則に対抗する武器になりえます。
ただ、現在に至るまで、量子世界の武器を手にしたマクスウェルの悪魔と熱力学第二法則との勝負の行方を正確に知ることは困難でした。
そこで今回、名古屋大学の研究グループは、量子の世界にまで踏み込んだ「悪魔エンジン」の数理モデルを開発することで、悪魔エンジンが成り立つかを調べることにしました。
これまでの研究でも、「マクスウェルの悪魔」が測定によって得た情報を活用して仕事を取り出すとき、一時的にエネルギーの収支がプラスになる局面がありうることは示唆されていました。
ところが(先にも述べたように)量子効果を加味すると、この「一時的プラス」がよりいっそう拡大する可能性があるのです。
つまり、マクスウェルの悪魔に量子効果という金棒が備わったわけです。
名古屋大学の研究グループが提示したモデルでは、量子論が許すあらゆる測定手法や操作方法を解析することで、この一時的プラスの仕組みを明らかにしています。
例えば、弱測定や確率的測定、量子もつれを利用した測定など、さまざまな量子効果を悪魔エンジンに取り込むことで、どのように仕事の取り出しが変わるかを総合的に評価できるようになっています。
さらに、その結果として一時的に「取り出せる仕事量が増えたように見える」状況も、正確に数式で捉えることに成功したのです。
言い換えると、「悪魔は本当にエンジンとして回るのか? もし回るならどれだけ得をするのか?」という疑問を真剣に解き明かすための数理モデルが、悪魔エンジンというわけです。
では、この「取り出せる仕事を増大させる量子効果」は、最終的に熱力学第二法則を破ってしまうのでしょうか?
研究者たちは組み立てられた「悪魔エンジン」のモデルをもとに、徹底的な調査を行いました。
結果、確かに一時的にはエネルギー収支はプラスになるものの、1サイクルを終えた時のエネルギー収支は常に赤字かゼロであることが判明しました。
つまり、「量子効果を駆使すれば、より大きな一時的プラスを得ることは可能」ですが、全工程──測定、フィードバック、メモリ消去、環境とのやり取り──を合わせて考えると、トータルの帳尻は合うのです。
これこそが、名古屋大学の研究グループが悪魔エンジンの枠組みで明確に示した成果のひとつといえます。
このことは、量子世界にまで手法を拡大したとしても、悪魔エンジンは熱力学第二法則を破れないことを意味しています。
やや劇的に言えば、マクスウェルの悪魔は量子という武器を手に熱力学第二法則に挑んだものの、結局は法則を破ることはできなかったわけです。
この研究により、量子論が許すどんな測定や操作を使っても、最終的には熱力学第二法則を破ることなく、「一瞬だけはプラス」の状態を作り出せるという事実が再確認されました。
これは「量子だから絶対に第二法則に隙がない」とか「量子なら簡単に第二法則を破れる」という単純な話ではなく、量子論は悪魔に“特別な力”を与えうる一方で、結局は全体のバランスが取れる形で第二法則が守られる、という結果を示しています。
参考文献
No quantum exorcism for Maxwell’s demon (but it doesn’t need one)
https://www.nagoya-u.ac.jp/researchinfo/result-en/2025/02/20250210-01.html
元論文
Universal validity of the second law of information thermodynamics
https://doi.org/10.1038/s41534-024-00922-w
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部