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これまでの量子力学実験は人間の創造性によって組まれた巧みな実験方法によって発展してきました。
「シュレーディンガーの猫」や「二重スリット実験」など、象徴的な実験は数多くありますが、どれも高度な理論と複雑なセットアップが必要でした。
(※シュレーディンガーの猫は思考実験ですが、近年では猫の代りとなる物体を使った重ね合わせの研究が進んでいます)
物理学の偉人たちによって組まれてきた実験は、新たな量子状態の生成を可能にし、新たな理論を育み、量子コンピューターをはじめとした量子技術の実用化を後押ししてきました。
しかし特定の量子状態を生成するために実験セットを組むのは並大抵の努力では実現しません。
理論的に可能であることを現実世界で証明するには、無数の機器を上手に組み合わせて実験を行う必要があるからです。
しかしAI技術の急速な進歩により、実験のセットアップをAIに任せることが可能になってきました。
マックス・プランク光科学研究所のクレン氏が開発したAI「PyTheus(ピュテアス)」は、人間が実現したい量子状態を入力するだけで、実証に必要な実験の設計を自動的に行ってくれます。
AIは量子力学の理論と実験手法を「学習」することで、人間が考えるよりも遥かに早く効率的な実験方法を提案することができるようになったからです。
実際、2022年に発表された研究では「PyTheus」によって100種類の多様な量子実験の手法が「発見」されました。
それらの多くは従来の実験方法を改良したもので、人間の科学者もすぐにその有用性を見抜けるものでした。
しかし中には、人間の科学者にとって何を示しているか意味不明なものも存在していました。
このとき、1つ目の可能性としてはAIがミスを犯して滅茶苦茶な実験方法を組んでしまった場合があげられます。
そしてもう1つは、科学におけるAIの究極の目的である、人類が知らない「科学的発見」に繋がった可能性です。
しかし本当にAIに科学的発見などできるのでしょうか?
クレン氏は当初、量子もつれの交換(エンタングルメントスワッピング)を行うための実験セットを「PyTheus」に吐き出させようとしていました。
量子もつれは、2つの粒子が一体化した状態で、1つの粒子の性質を測定することで、もう1つの粒子の性質が瞬時に決まる、という関係です。
量子もつれの交換(エンタングルメントスワッピング)では、この概念を少し複雑化させ、2つのもつれたペア(A-B、C-D)が用いられます。
そして特殊な測定(ベル測定)をペアを構成する一方のBとCに対して行うことで、もともと直接関係のなかった粒子(AとD)が新たに「もつれた」状態にさせることが可能となります。
ただこの実験を行うには事前に量子もつれを2対作成したり、ベル測定といった特殊な測定を行う他に、複数の補助光子を使用する必要がありました。
しかしクレン氏が「PyTheus」に実験手法を出力させようとすると、既存の実験手法を吐き出す代わりに、予想もつかなかった全く新しい方法を提案してきたのです。
この新たな方法は、既存の実験よりも圧倒的に簡易であり、ベル測定や補助光子といったこれまで必須と考えられていたアイテムを使用しないものでした。
代わりに光子の進路や光子の出発点の区別がつかなくさせるだけの、非常に簡易な方法で、異なる光子ペアに属していた光子が新たに量子もつれ状態になると示したのです。
先にも述べたように、異なる起源を持つ光子対の間で量子もつれを作るには
①事前の量子もつれの生成
②新規の量子もつれを形成するための特殊な測定(ベル測定)
③補助光子の使用
が必須とされていましたが、AIの吐き出した実験計画にはそれらを行う過程が抜け落ちていたからです。
あえて生物学の実験でたとえるならば、DNAを抽出するのに必須であると考えられている、細胞のすり潰しや遠心分離といった過程が抜け落ちた実験手順が出力されたようなものです。
そのためクレン氏は当初、AIが出力した実験方法について、間違っていると考えました。
しかしAIの出力した実験手法をよく見てみると、あながち間違っていない可能性も浮かんできました。
これまで行われた研究の中には、量子の情報を消去する過程を経ることで、新規の量子もつれのを発生させられるとする結果もあったからです。
そしてAIが吐き出した実験手法も、2対の光子(4光子)の起源がわからなくなってしまう過程が含まれていました。
認識可能な情報が本質的に存在していない場合、わざわざ量子のもつ情報を消さなくても、新たな量子もつれを作成できる可能性があります。
AIの出力した実験方法は量子もつれの交換(エンタングルメントスワッピング)そのものではありませんでしたが、異なる光子対の間に量子もつれを作成するという点においては、十分に可能性があったわけです。
つまりクレン氏が量子もつれの交換(エンタングルメントスワッピング)の実験レシピを頼んだところ、AIは量子もつれを用意せずに新しい量子もつれを発生させる新しい「何か」が出力されたわけです。
AIを使ったイラストで例えるならば、イメージするのとは違ったキャラクターが生成されてしまったものの「これはこれで興味深い」と言える状況に近いでしょう。
あるいはグラタンのレシピを聞いたら、誰も食べたこともないグラタンによく似た「タングラ」と呼ばれる未知の料理のレシピが出力された状況とも言えます。
どちらにしても、放っておく手はありません。
もしかしたら本当に人間が知らなかった量子もつれの作成方法が記されている可能性があったからです。
そこで今回研究者たちはAIが出力した通りに実験セットを組み上げ、本当に新規の量子もつれが簡単に作成できるかを調べてみることにしました。
実験セットを組み上げるには1週間ほどしかかかりませんでしたが、その後の検証期間は1年にも及びました。
しかし時間をかけたかいはありました。
AIの出力した実験方法を実行すると、驚くべきことに、異なる起源を持つ光子ペア同士の間に新たに量子もつれ状態になっていることが明らかになりました。
また新規の量子もつれが起きているかを確かめるのも、4つの光子全てを測定するのではなく、1つの光子の測定のみで判断できました。
この結果は、AIが設計した実験を行うことで、人間では予想もできなかった新たな科学的知見を得られる可能性を示しています。
AI「PyTheus」が提案した新しい実験手法は、量子物理学の可能性を広げる画期的なものでした。
事前のもつれ生成やベル測定に頼らず、新たな量子もつれを簡易的に生成する方法は、従来の量子技術を一歩先へ進める可能性を秘めています。
この成果は、AIが科学において不可欠な役割を果たす未来を示すとともに、量子技術の実用化に向けた重要な進展を示しています。
研究者たちは今回の研究で提示された原理に基づいて、新しい量子実験を検討していると述べています。
科学的検証のプロセスは論理的であり、AIが得意なプログラムコード生成にも似た手順があります。
もしかしたら未来の物理学実験は、人間が仮説を入力して、AIが実験の設計図を組み、ロボットが実証をするという役割分担がなされているかもしれません。
元論文
Entangling Independent Particles by Path Identity
https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.133.233601?_gl=1*1mkugji*_gcl_au*MTQ1MjgyNDczMS4xNzMyNjY0MTEx*_ga*NDc0MDg5NTkwLjE3MjAzOTI3NTM.*_ga_ZS5V2B2DR1*MTczMzcyMTU3MC4zNy4xLjE3MzM3MjE1ODAuNTAuMC4zMDg2Njk5OTE.
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部