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近年欧米では、he(彼)やshe(彼女)のような代名詞は、男女ありきの考えの押し付けに繋がるとして、代わりにthey(彼ら/彼女ら)を使おうとする運動がみられます。
たとえば従来は
太郎と花子が居酒屋に入ってきた。そして彼は椅子に座った
Taro and Hanako came into the bar. And he sat down on a chair.
と太郎に対して彼(he)という代名詞を使います。
しかし太郎が自分は男性でも女性でもなく彼(he)や彼女(she)を使いたくないと主張する場合には
太郎と花子が居酒屋に入ってきた。そして彼らは椅子に座った。
Taro and Hanako came into the bar. And they sat down on a chair.
と表現するように求められます。
こうすると、椅子に座ったのが太郎だけではなく花子も含まれるという意味に変化してしまします。
他にも同じ性別の人物が2人いる場合では
太郎と次郎が居酒屋に入ってきた。そして彼は椅子に座った
Taro and Jiro came into the tavern. And he sat down on a chair.
となり、太郎と次郎のどちらが椅子に座ったのかわからなくなっていまします。
一方、代名詞の代りに「太郎」という名詞を使い続ける場合には、このような間違いは発生しません。
このように代名詞は名詞に比べると情報が曖昧であり、使用法によっては情報伝達に混乱が起こることがあります。
しかし全体として、人間は名詞を代名詞に変換するのが非常に得意な生物であることは確かだと言えるでしょう。
本を読んでいて「代名詞が出てくるたびに誰だったかを確認しなければならない」という人や「会話の中で代名詞が出てくると話が分からなくなる」という人は、あまりいません。
実際、代名詞が全く存在しない言語というのは、地球上にほぼないと考えられています。
しかし、そもそも、なぜ代名詞というものが存在するのでしょうか?
先に述べたように、代名詞を使用した文章は、正確性の点で名詞を使い続ける文章に比べて劣っています。
なのになぜ代名詞というものを、人々は使うようになったのでしょうか?
この点については、主に2つの理由があるとされます。
1つ目は代名詞は会話効率を高め、より短い発話でより長い名詞を表現するために出現したとするものです。
名前の中には徳川次郎三郎源朝臣家康(徳川家康の正式名)やジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート(ジョージ5世の正式名)など長めのものも存在します。
さらに医学の分野では「pneumonoultramicroscopicsilicovolcanoconiosis(日本語では塵肺症、超微視的珪質火山塵肺疾患のこと)」と45文字に及ぶ名前を持った名詞も存在します。
たとえ正確性に勝っていても、このような名詞をそのまま使い続けることは合理的ではありません。
略すなり頭文字をとるなりして、何らかの代名詞化をしなければ会話も成り立たなくなるでしょう。
また太郎といった比較的簡単な名詞であっても「彼」というより簡単なバージョンに置き換えられれば効率化が進みます。
トルコ語では「彼・彼女」など男女別の代名詞を使用する代わりに「彼・彼女・それ」をまとめて「o」という極めて簡潔な代名詞で表現されます。
さらに会話者の間で十分な共通認識がある場合、名詞や代名詞すら省略して会話効率を高めている言語も存在します。
たとえば日本語やスペイン語などの「ご飯食べた?」という表現がそうです。
人間にとって情報は正確さが全てではなく、情報の簡潔さもまた重要な要素であるようです。
しかし興味深いことに、人間社会が複雑化するにつれて、代名詞は情報の簡潔さとかけ離れた状況でも使われるようになりました。
情報の効率化に加えたもう1つの要素。
それは、特別感の演出です。
代名詞を会話や文章の中で「最も目立つ存在」に対して使うことで、その存在が物語で重要であることを示す効果もあるとされています。
たとえば
二郎と三郎と四郎は顔を上げて壇上に立つ一郎を見つめた。そして……ついに彼は語り始めた。
という文章がそうです。
この文では「そして~」以降の後半の文で、あえて一郎と書かず彼と書かれています。
彼と呼んでいい存在は一郎から四郎まで4人いますが、その可能性を押しのけ、あえて一郎のみを「彼」とすることで、言語構造のレベルで特別感を演出することが可能になるからです。
小説などでは、このテクニックは非常に良く使われています。
さらに歴史的にも、社会のリーダーとなる人物は自らの代名詞をより鮮明に「特殊化」することが知られています。
たとえばかつて日本の天皇は自分に対して「朕」という特殊な一人称代名詞を用いてきました。
また歴代の中国の皇帝は「朕」に加えて「吾」という一人称代名詞を使いました。
さらにローマ皇帝はしばしば自分を示す際に「Nos(我々)」という複数を意味する代名詞を使いました。
これは「威厳の複数」と呼ばれる代名詞であり、文法書にも記されているのを見たことがある人もいるでしょう。
イギリス王室においても女王や国王が公式声明を行う際には、自分自身のことを「We(我々)」と「威厳の複数」を用いていることが知られています。
日本で社会的地位のある女性をしばしば「女史」とするのも、ある意味で特別な女性であることを意識させるための表現であると言えるでしょう。
重要なのは、このような特別感の付与は、敬称では上手くいかないものの、代名詞ならば可能だと言う点にあります。
自分で自分の名前に「様」や「殿」「女史」「博士」などの敬称を付けるとかなり愚かに聞こえますが、特別な代名詞を使うと、愚かさを回避しつつ凄みを出すことが可能です。
ただ朕やweのような特殊な代名詞を使用するには、周囲の人々との間に一定のコンセンサスが必要になります。
コンセンサスがない状態での特殊な代名詞の使用は、社会的に不適格だとみなされてしまいかねません。
たとえば子供の頃に、自分を偉ぶって「朕これからゲームする」と言ってしまった人もいるのではないでしょうか?
あるいは友達に対して、これからは自分のことを「教授」や「陛下」と呼ぶように強制した人もいるかもしれません。
実態の伴わない代名詞ほど惨めなものはないでしょうが(特に朕や陛下)、怖いもの知らずの幼い子供は、ついつい使ってしまうのかもしれません。
このように代名詞には「効率化」だけでなく「特別感の演出」という役割があることがわかります。
そう考えると、代名詞とは実に奥深いものであることがわかります。
ですがそれでも疑問は残ります。
なぜ人類はこうも、代名詞を巧みに扱うことができるのでしょうか?
そして日常会話や文章で頻出する「彼」や「彼女」を脳はどうやって特定の名詞と結び付けているのでしょうか?
脳はどうやって名詞と代名詞を結び付けているのか?
この謎を解明すべくオランダ神経科学研究所の研究者たちは、新たな実験を行うことにしました。
調査にあたっては治療のために脳で記憶を司る海馬に電極が差し込まれた患者たちの協力を仰ぎ、たくさんの写真を見せ、特定の画像のみに反応する細胞をみつけました。
たとえば「シュレック」の画像には反応するものの、他の画像には反応しない細胞などです。
このような特定の個人と結び付いた細胞は概念細胞と呼ばれています。
有名人である「キムタク」を知っている人の脳内には「キムタク細胞」が存在しており、木村拓哉の写真をみたり名前を読んだ時にのみ活性化するわけです。
その後、患者が「シュレックがフィオナと夕食を食べた。そして彼はワインを注ぎました」という文章を読だときの脳活動を調べてみました。
するとシュレックに反応する概念細胞が「彼」という部分でも活性化していたことが明らかになりました。
この結果は、私たちの脳は代名詞を特定の人と即座に結び付けていることを示しています。
概念細胞には「彼」という代名詞の運ぶ曖昧な情報から、曖昧さを解消する役割を持っていたわけです。
このような代名詞の使用に依存した概念細胞の活性化は、サルではみられず人間だけで観察されました。
これまでの研究によりゾウなど一部の動物は知り合いを名前で呼ぶことが知られていますが、人間以外の動物は「代名詞」を使いこなせないのかもしれません。
また名詞(シュレック)と代名詞(彼)に対する脳の反応時間を調べたところ、名詞反応は0.21秒であったのに対し代名詞反応には0.6秒かかっていたことが示されました。
研究者たちは代名詞のほうが反応に長く時間がかかってしまうのは、概念細胞が代名詞を結び付けるプロセスを反映していると述べています。
代名詞は脳の処理負荷を上げてしまいますが、この程度の負荷ならば許容されるのかもしれません。
次に研究者たちは、2人の同性について述べる、ある種の「ひっかけ問題」ならぬ「ひっかけ文章」を用意しました。
たとえば
「トランプとオバマが居酒屋に入ってきた。そして彼は椅子に座った」
という文章です。
この文は先の一郎、二郎、三郎、四郎が出てきた文章(二郎と三郎と四郎は顔を上げて壇上に立つ一郎を見つめた。そして……ついに彼は語り始めた)のように、一郎という特定個人をクローズアップしたものではなく、トランプとオバマの優位性は中立です。
そのため被験者たちは彼がトランプとオバマのどちらになるかを自分で決めなければなりません。
すると被験者たちは、海馬の活動が活発だった人を「彼」に選ぶ傾向があることがわかりました。
研究者たちは誰を「彼」にするかは内的な好みに基づいている可能性があると述べています。
今回の研究では、代名詞の曖昧さの解消は性別のみにもとづいていましたが、他の文ではより文脈が重要になってきます。
たとえば「彼がとても金持ちであることがジョンを喜ばせる」という文章では「彼」はジョンである場合もあれば、そうでない場合もあります。
しかし「彼はとても金持ちなのでジョンは喜んだ」という部分では「彼」はジョンではない別の人物を指します。
研究者たちは、脳のネットワークがこのような複雑な代名詞の情報処理をどのように行っているのかは、将来の重要な脳科学のテーマになると述べています。
参考文献
How are pronouns processed in the memory-region of our brain?
https://nin.nl/news/how-are-pronouns-processed-in-the-memory-region-of-our-brain/
元論文
Pronouns reactivate conceptual representations in human hippocampal neurons
https://doi.org/10.1126/science.adr2813
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部