古代ローマやエジプトなど地中海沿岸地域で紫色は帝王の色とされ、権力者の力を誇示するために使われました。

同じように日本でも聖徳太子の冠位十二階に見られるように濃い紫色は高い位階を現す高貴な色として尊ばれてきたのは偶然の一致なのでしょうか。

紫色は何故、数ある色の中でトップクラスの地位に上ることになったのでしょう。

目次

  • シーザーやクレオパトラが誇示した貝紫
  • 日本では紫色の染色に植物が使用された

シーザーやクレオパトラが誇示した貝紫

古代、地中海地域で支配者が重用したティリアンパープル(帝王紫)

紫色は帝王のための色と呼ばれ、フェニキア人の都市国家「ティルス」で生産されていたことを大プリニウスが『博物誌』の中で書いています。

ティルスの紫色ということからティリアンパープルという呼び名が生まれました。

こうした地域では紫色の染色にアクキガイ科の貝が持つパープル腺とも呼ばれる鰓下線(さいかせん)を使用していました。地中海沿岸地域だけでなく、中南米でも使われていたことがわかっています。

『博物誌』を著した大プリニウス/Credit:wikimedia

古代の支配者は、その支配力を紫色でも示していました

有名なのはローマ皇帝シーザーが着用した紫色のマントですが、マケドニアの英雄アレクサンダー大王も、この紫色の衣装に執着したことが、ブルータスの『英雄伝』に見られます。

また、エジプトの女王、クレオパトラはさらにスケールが大きく、シーザー亡きあとアントニウスに呼び寄せられた時は自身が乗る旗艦の帆を紫色に染めさせました。

紫色は大きな帆のように目立てば目立つほど、支配者の権力を誇示することにつながったのです。

ティリアンパープルはアクキガイ科の貝を使って染めるため、貝紫とも呼ばれています。

紫色に染められる貝は何種類もありますが、比較的大きなサイズの貝であっても使えるのは貝の中の鰓下線のみです。この鰓下線に含まれる黄色くネバネバした物質を集めて布を紫色に染めていました。

1個の貝から取れる鰓下線はごくわずかです。

そのため、衣服にする布を濃い紫色に染めるためにはたくさんの貝と多くの人力を必要としました。1gの染料を得るために必要とされた貝は2,000個に及んだと言われます。

貝紫で染めた紫は支配者でなければ手に入れることのできない色だったのです。さらに黄色っぽい鰓下線の液を紫色に発色させるには光線の加減も必要とするものでした。

アクキガイ科の貝は種類によっても色味の違う紫色に染まる/Credit:wikimedia

貝紫の色素はインジゴに臭素置換した 6,6’-ジブロモインジゴである事がわかっています。

そのため、現在では化学合成で貝紫と同じ紫色を染めることができるようになりました。インジゴとは藍染に使う染料の色素で、貝紫と近しいことがわかったのはとても興味深いことです。

しかし、化学合成した6,6’-ジブロモインジゴであっても紫色を思うような色味に発色させることが難しいのは、紫外線と可視光線のスペクトルによっては紫色ではなく、インジゴのような青、もしくは青みを帯びた紫色となってしまうからです。

光線は注意深く調整する必要が実験でもわかっており、古代でもそれは同様だったはずです。

上、6,6’-ジブロモインジゴの化学式。下はインジゴの化学式。ティリアン・パープル(6,6’-ジブロモインジゴ)とよく似ていることがわかる/Credit:wikimedia

貝紫に使う貝の鰓下線は貝の内臓なので磯臭いものですが、それがどんどん悪臭に変化していきます。

それを大量に準備しなければならないうえ、光にも注意を払う必要がありました。染色作業は不快さも伴う非常に大変なものだったことが想像できます。

貝を採る漁師、鰓下線から染料を作り染色する職人など、紫一色を染めるために動員された人数は支配者のためでなければ準備できなかったことでしょう。

またその染色技術は門外不出で、買い手には支配者であっても知らされませんでした。技術を秘匿し貴重なものにすることで貝紫はさらに高価なものとなったのです。

日本では紫色の染色に植物が使用された

古代日本でも貝紫が使われたことがわかっています。縄文時代の遺跡、東京都品川区の大森貝塚からはアクキガイ科のチリメンボラが大量に見つかっており、貝紫で布を染めていた可能性が示唆されています。

佐賀県にある弥生時代の遺跡、吉野ケ里遺跡からは貝紫で染められた絹布が発掘されました。しかしその後は見られなくなっていて、理由はまだわかっていません。

地中海沿岸地域では染色用の貝を大量に採ったために数が減り、やがて廃れてしまったと考えられていますが、日本でもそうだったのかもしれません。

そのかわり、日本では紫草という植物の根「紫根(しこん)」が使われるようになりました。

紫根は加熱して70℃を超えると黒く濁ってしまうという特徴があるため、煮出して簡単に染料を作ることができません。

そのため、紫根に含まれる紫色の成分のシコニンを高温で煮出さず、しごき出すようにして得る必要があります。

また、煮出しておらず水中に均一に散っているわけではない染料でも染まりやすいよう、染める布はあらかじめ椿の灰を使って媒染しておかなければならず、しかもアルカリ性・酸性によって紫色が青み・赤みに振れることから、染色液のpHを調整する技術も要求されました。

植物を用いた技術であっても染料を作る手間、染色以前の媒染、濃い色に染めるための時間がかかり、簡単に染められる色ではなかったのです。

紫根から取れる紫色の成分、シコニンの化学式/Credit:wikimedia

技術だけでなく、濃い紫色に染めるためには大量の紫根が必要でした。

聖徳太子が定めた冠位十二階では濃い紫は最も高位の色に定められていました。8世紀に律令制が定められた時には位階に応じた色も定められました。

顔を見るより先に色で人の位階を見分けていたのです。

このように色が政治利用されるようになると、染める度に色味や濃さが変わっては困ります。そのため、10世紀に編纂された格式(律令を施行するためのルールブック)『延喜式』には、位階に応じた色を出すためのレシピも定められました。

記載では動物性繊維の絹を一疋(着物を一着織る一反の倍の長さ)、濃い紫に染めるために使う紫根は30斤とされています。1斤=600gなので、30斤=18kgという分量になります。

これが麻のような植物性繊維になると、濃い紫に染めるために必要な紫根は50斤=30kgという大量なものでした。

このように紫根で染める紫色も、濃い紫色に染めるためには多くの原料、そして面倒な手間と時間を必要とする、経費のかかるものだったことがわかります。

その後も位階を衣装の色で表すことは続き、朝廷では位階以上の色を「禁色」として使ってはならないことが明治時代になるまで続きました。

紫色ではありませんが、明治維新以降、袞衣(こんえ:天皇の礼服)が廃止された後の現代でも「黄櫨染(こうろぜん)」という黄色がかった茶色は重要な儀式の際に天皇だけが身に着けることのできる色となっています。

法律で禁止されているわけではありませんが、令和の時代でも当然のように禁色が守られています。

化学的に合成された染料が開発されるまで、洋の東西や染色の原料を問わず、濃い紫色を美しく染め上げるということは、大量の原料と注意深く管理された化学反応を伴う行程を踏む技術を要するとても面倒で手のかかることでした。

布を紫色に染め上げるのは経費的にも人的にもコストのかかることだったのがわかります。そのため、紫色の布を手にすることができるのは政治的に権力を持った支配者高い官位を持つ貴族という特権階級の人だけだったのです。

紫草の花。染色には根を用いる/Credit:wikimedia

そんな中、日本では支配者層ではない人達が貝紫を使用していたレアなケースがあります。伊勢の海女さんです。

布を均一に染めるのではなく線描でしたが、伊勢の海女さんたちは数十年ほど前まで、事故防止のまじないとして貝紫でセーマンドーマンを描いて身に着けていました。

セーマンとは五芒星、ドーマンとは九字を現した格子模様。語源は有名な陰陽師、安倍晴明と蘆屋道満とも言われ、貝の鰓下線を使い、松葉で書いたと伝わっています。

ほんの一ヵ所に書く自分用のちょっとした線描なので、買わなくても身近にある素材であり、濡らしても消えず日光にも強く堅牢に染め付けることのできる染料として、貝紫は海女さんたちに重宝されていたのです。

これは日本染色の歴史トリビアと言ってもいいでしょう。

五芒星のセーマンと九字のドーマン/Credit:wikimedia

明治維新で朝廷がなくなり、紫色が禁色ではなくなってから130余年。使って咎められることがなくなり、また色素の化学組成が判明した現代では、紫色は庶民も気軽にファッションで使えるようになりました。

それでもなお、長年のその位の高さから、今でもその高貴なイメージは人々の中に残っているようです。

高級な贈答用商品には桐箱の内側に紫色の布が貼られていたり、結び紐や瓶の装飾などに紫色の組み紐が使われていたりするのを見ることもあるでしょう。

衣装だけでなく古典文学で「紫」のつく人名にも高貴な香りを感じ取ることのできる日本人。色彩は人の感性に共通認識を与えるものでもあることを、紫色は古代から現代に伝えてくれているようです。

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参考文献

吉岡常雄の仕事 天平の赤・帝王の紫 幻の色を求めて
https://amzn.to/47VoO3C

元論文

古代紫(チリアンパープル)の合成と染色
https://doi.org/10.11417/silk.15.104

ライター

百田昌代: 女子美術大学芸術学部絵画科卒。日本画を専攻、伝統素材と現代素材の比較とミクストメディアの実践を行う。芸術以外の興味は科学的視点に基づいた食材・食品の考察、生物、地質、宇宙。日本食肉科学会、日本フードアナリスト協会、スパイスコーディネーター協会会員。

編集者

海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。

情報提供元: ナゾロジー
記事名:「 古来、洋の東西を問わず紫が高貴な色だった理由