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江戸幕府は創立以降、何度もキリスト教の禁教令を出していました。
そして1629年、キリスト教徒を取り締まるために絵踏みを導入したのです。
この絵踏みでは幕府はキリスト教のシンボルについて描かれていた絵を領民に踏ませることによって、領民にキリスト教を信仰していないということを証明させていました。
なお踏絵を踏むことのできなかった人は棄教するまで様々な拷問にかけられることとなり、その中で命を落とす人も決して少なくなかったのです。
とりわけキリスト教徒が多くいた九州では盛んに行われ、江戸時代初期の段階では年に数回行われていました。
しかし何度も行うにつれて目立つキリスト教徒は概ね摘発し、残ったキリスト教徒は隠れキリシタンとして地下化したこともあり、絵踏みの効果は徐々に低下していきます。
こうした隠れキリシタンたちは、「たとえ絵を踏んだとしても、内面でキリスト教を信仰していれば何も問題ない」と解釈して絵踏みを行っており、絵踏みによってキリスト教徒を炙り出すということは困難になったのです。
それでも絵踏みがなくなることはなく、江戸時代中期には長崎奉行所で毎年旧正月に絵踏みが行われていたとされます。
当時の長崎の人々はこれを正月の恒例行事としてとらえており、遂には「絵踏み」が春の季語として認められるまでにいたりました。
このように江戸時代を通して行われていた絵踏みですが、それに使われていた絵はどのようなものだったのでしょうか。
絵踏みに使われていた絵は様々なものがあり、現存するものだけでも「十字架に吊るされているキリスト」や「聖母マリア」など非常にバリエーションに富んだ様々な種類の踏絵がありました。
また踏絵は当初はキリストやマリアが描かれた紙を使って用いられていたものの、多くの人が踏んでいたこともあって損傷が激しく、途中から信徒から没収した約10センチ×約20センチ程度の礼拝用のメダイ(メダルのようなもの)を板にはめ込んだ板踏絵が主流になりました。
しかしそれも何度も踏まれ続けたことによって絵が削れていき、徐々にただの板になってしまいました。
そこで幕府は金属の板にキリスト教のモチーフを彫った真鍮踏絵を作り、これを用いて絵踏みを行いました。
なお真鍮踏絵は製作者がキリスト教徒ではなかったということもあり、そこに彫られているキリストやマリアはある程度は似ているものの、細部を中心にところどころ省略されています。
その中にはキリスト教の教義において重要な要素もあり、それゆえ隠れキリシタンの中には「こんなのはキリストのまがい物だ」と捉えて、何のちゅうちょもなく真鍮踏絵を踏んだ者も決して少なくはなかったという。
またこうした絵踏みに使われていた踏絵は、幕府や藩のもとで厳重に管理されていました。
例えば平戸藩(現在の長崎県平戸市)では幕府から真鍮踏絵を借りるにあたって、藩内で使われていた板踏絵などを焼き捨てており、その灰までも集めて処理していました。
なぜそこまで徹底的に管理されていたのでしょうか?
これは踏絵自体も信仰の対象物になる恐れがあったためです。それゆえ藩は、踏絵を処分後の灰まで管理していたのです。
このようなこともあって、踏絵を見ることは非常に難しく、たとえ藩主であったとしても簡単には踏絵を見ることができなかったのです。
また真鍮踏絵を持っていたのは幕府だけということもあり、幕府から真鍮踏絵を借りない藩では従来の板踏絵が使われていました。
しかし先述したように板踏絵は何度も使われるうちにどんどん劣化してしまいます。
また禁教政策が定着したことにより新しい踏絵を調達することも困難になっていたため、替えの効かない板踏絵は行政的な道具として大切に保管されるようになったのです。
こういったところにも、江戸時代独特の価値観が窺えます。
参考文献
絵踏の展開と踏絵の図像 ―貸借にみる踏絵観― (seinan-gu.ac.jp)
http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/2150
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。