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その愛され方は一国の暴動をおさめるほどでした。
例えば、初代皇帝アウグストゥスのあとを第2代皇帝ティベリウスが継ぐことに対して、兵士が暴動を起こしたときのこと。
危害が及ばないようにカリグラを安全な場所に移すと聞いた兵士たちは「カリグラを自分たちから遠ざけないでくれ!」と嘆願し、自ら暴動を鎮めたといいます。
そのときに兵士たちは、幼いカリグラの履いていた「小さな軍靴」にちなんで、それを意味するラテン語の「カリグラ(Caligula)」とニックネームをつけたのです。
しかし幸福な時期はそう長続きしませんでした。
カリグラが7歳のときに、父ゲルマニクスが死去。
その後、母アグリッピナの元で暮らすことになりますが、西暦29年に2代目皇帝ティベリウスが、アグリッピナとカリグラの長兄を反逆罪容疑で追放処分に。
また30年には次兄までも同じ容疑で収監されました。
これ以降、青年になったカリグラと3人の妹は軍によって軟禁され、ティベリウスの捕虜同然の状態に置かれてしまうのです。
カリグラはティベリウスの元で6年間を過ごす中で、徐々に信頼を勝ち得ていきました。
33年には、ティベリウスからクァエストル(財務官)という高い地位も与えてもらっています。
そして西暦37年3月16日、ティベリウスが77歳で死去すると、その後釜としてカリグラとティベリウスの孫であるゲメッルスが共同統治をすることになりました。
ところがです。
3月28日にローマ入りをしたカリグラの人気は絶大なもので、事実上、彼だけがローマ皇帝として統治する状態になりました。
カリグラはローマ市民から「われらの子」「われらの星」と歓呼の声で迎えられたといいます。
カリグラの即位を祝う式典では、3カ月にわたり16万匹を超える動物が生贄に捧げられたという。
しかし、まだ何の功績も残していないカリグラがなぜこれほど人気だったのでしょうか?
そのワケはとりもなおさず、ティベリウスの不人気の裏返しから来るものでした。
ティベリウスは晩年、表舞台から田舎に引っ込み、ローマ市民の前にはまったく姿を現さなくなりました。
その上、彼の厳しい緊縮財政から剣闘士(グラディエーター)の試合や競技会など、庶民の娯楽だった催しの予算を大幅に削減したことでローマ市民の不興(ふきょう)を買っていたのです。
とにかくティベリウスは不人気で、彼の訃報にローマ市民はやんやの大喝采を送ったといいます。
その孫であるゲメッルスも当然、ローマ市民から支持されることはありませんでした。
これに対して、カリグラはローマ市民から絶大な人気を誇っていた初代皇帝アウグストゥスのひ孫に当たります。
彼の血を引き継いでいることから、カリグラだけが市民から圧倒的な支持を受けるに至ったのです。
こうして第3代ローマ皇帝となったカリグラは、政策の面でも寛大な姿勢を取りました。
兵士に賞与を支給したり、ティベリウスによって作成された反逆罪に関する書類を破棄して、国外に追放されていた者たちの帰国を促したり、重税で苦しい思いをしていた市民を保護したり、剣闘士による試合を復活させたりしました。
アレクサンドリアの哲学者フィロンは、その時期のカリグラについて「即位してから最初の7カ月間はまったくの幸福に満ち溢れたものだった」と書き残しています。
まさにカリグラはローマ市民にとってのヒーローでした。
ところがある事件をきっかけに、まるで別人のごとく豹変してしまうのです。
幸先よく皇帝としてのスタートを切ったカリグラでしたが、37年10月に突然の病に倒れてしまいます。
この病の正確な病名や原因はわかっていませんが、カリグラは高熱や激しい頭痛にうなされ、数週間にわたって危篤状態にさらされました。
幸運にも一命は取り留めましたが、ここからカリグラは以前とまったくの別人になり始めます。
病気からの回復後、カリグラの精神状態は不安定になり、異常行動や残虐行為が目立つようになりました。
例えば、カリグラが病に伏せっていたとき、「皇帝の病気が治るなら自分の命を捧げてもいい」と誓った人物が何人もいたのですが、カリグラは回復後に彼らを呼び出して「では約束を守ってもらおう」と崖から突き落として殺害したのです。
後世に残っている史料のほとんどには、カリグラの残忍さや放蕩ぶり、狂気的な奇行の数々が記されています。
カリグラは自分以外のことに興味がなくなり、急に切れやすくなったり、気まぐれで人を処刑したり、国のお金の濫費や相手かまわぬ性行為に溺れるようになりました。
他の男たちの妻と寝たことを自慢してまわったり、実の妹たちと近親相姦に耽ったり、周囲の男性とも手当たり次第に性行為を繰り返したのです。
挙げ句の果てには、宮廷を売春宿にしたとさえ言い伝えられています。
狂気染みていたのは性にまつわるエピソードばかりではありません。
例えば、罪のない人々を闘技場で野獣に食べさせる蛮行をしたり、愛馬のインキタトゥスを執政官に任命したり、「私は神だ」と吹聴し、神々の仮装をして公の場に姿を表すようになりました。
中でも有名な奇行が海に対して戦争をしかけたことです。
カリグラは西暦39年に、軍隊を率いてガリア(現在のフランス)の海岸へと遠征し、ここで突然、目の前のイギリス海峡を相手に戦争を宣言しました。
カリグラは兵士たちに戦闘準備をするよう命じましたが、周りはもちろんポカンです。
敵軍がいませんから兵士たちは大いに混乱したといわれています。
さらにカリグラは戦利品として兵士たちに「貝殻」を集めて持って帰るように命じました。
この逸話はカリグラの精神が非常に不安定になっていたことを示すものとして伝わっています。
カリグラの狂気はいよいよ、一国を統べる者として限界に近づいてきました。
国の財政難から元老院たちと決裂し、いくつもの陰謀にさらされるように。
そして西暦41年1月24日、カリグラは皇帝を守るために作られたはずの精鋭部隊「プラエトリアニ」の将校たちの手によって暗殺されます。
歴史的な資料によると、彼は鋭利な刃物で30回以上も刺されたという。
こうしてカリグラは28年という短い生涯に幕を閉じました。
周囲に寵愛された幼年期からローマ市民の英雄となり、最終的には狂気に走った彼の激烈な人生は、映画や舞台の題材となり、今なお多くの人の注目を集めています。
ちなみに、他人から強く禁止されると逆に欲求が高まる心理現象を意味する「カリギュラ効果」も彼に由来しています。
より正確にいうと、1980年の映画『カリギュラ』が原因で、その過激すぎる内容からアメリカの一部地域で公開禁止の騒動になり、それが返って世間の話題を引いたことから生まれました。
カリグラは必ずと言っていいほど野蛮な人物として描かれますが、その狂気の背景には病による精神錯乱が原因としてあったのかもしれません。
参考文献
Caligula: 18 Facts on the “Mad” Roman Emperor
https://www.thecollector.com/caligula/
Roman emperor Caligula’s 2,000-year-old garden unearthed near the Vatican
https://www.livescience.com/archaeology/romans/roman-emperor-caligulas-2000-year-old-garden-unearthed-near-the-vatican
ライター
大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。
編集者
ナゾロジー 編集部