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最初に紹介する悪魔はフランスの数学者であるピエール=シモン・ラプラスによって生み出されました。
彼は特に科学の歴史に名を残す重要人物の一人です。
理系の大学生であればラプラシアンやラプラス変換という言葉は馴染深いでしょう。
そうでなくとも、今や日常生活に浸透しきっているメートル法の原型となるものを提唱したのも彼である、と言えば凄さが伝わるかもしれません。
そんなラプラスの生み出してしまった悪魔は、なんと未来を見通す能力を持っています。
未来を見通せる能力など持っているようならば、漫画やアニメの世界でも最強クラスに属するでしょう。
そのような存在が、本当に居てもいいのでしょうか?
この悪魔の存在可能性を考えるにあたって”未来を見通す能力”とは何か、もう少し科学的な観点から紐解いてみましょう。
ニュートンの運動方程式の発見以降、これを用いた古典力学(一般的に学校で習う物理学)により斜面を転がる石や空から降ってくる雨などの自然現象、さらには天体の動きまでも説明できるようになりました。
このような経緯からあらゆる問題を古典力学で説明できるのではないかと思われていた時代があります。
そうした考えの延長から、「もし宇宙に存在する全ての物体や粒子の位置と運動量などのパラメーターが分かり、さらに物理的な法則を正確に把握すれば未来の運動は全て予測できるのではないか?」という発想が一部の科学者から生まれたのです。
「全ての出来事はそれ以前の出来事のみによって決定される」という考え方は決定論と呼ばれています。
ラプラス自身も決定論者であり、自著「確率の解析的理論」において、次のような主張を行いました。
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの知性が存在するならば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。
この文章における「知性」こそが、後にラプラスの悪魔と呼ばれるようになる超人的な存在です。
つまり、
という2点をもって、「未来を見通す」ことを実現させています。
「そんな存在はいるわけがない」と言うのは簡単ですが、この悪魔の存在がすぐには消えなかったことから、いかに当時の古典力学の範疇で否定し、倒すことが困難であったかが分かるでしょう。
この問題の結論が科学的に付けられるようになったのは、誕生から100年ほど経った20世紀に入ってからです。
20世紀に入ると、全てを説明できるかに見えた古典力学の範囲内では説明できない物事が知られるようになります。
例えば光や電気が波と粒子の両方の性質を併せ持つような振る舞いをする現象は、その一つです。
このような現象は、物質を「量子」というものであると考える量子力学によって説明がつけられるようになりました。
そして量子力学において量子の位置や運動量などは、事前に決まりきっているのではなく確率として表現されます。
実際にどの位置にあり、どのような運動量を持つかなどは、実験により観測を行ってようやく確定するのです。
量子力学の成立は、ラプラスの悪魔は存在しないと結論づけるための有効な一撃となりました。
なぜならばラプラスの悪魔は全ての物質の状態を知っているからこそ能力を発揮できるのですが、実際には量子は確率的な振る舞いをするため事前に物質の状態全てを知ることは不可能だと示されたからです。
こうしてラプラスの悪魔はいない、と自信を持って言うことができるようになりました。
量子力学が科学の発展に大きく寄与したことはよく知られていますが、同時に思考実験により現れた「悪魔」を追い払うことにも成功していたのです。
次に紹介する悪魔はイギリス・スコットランドの理論物理学者であるジェームズ・クラーク・マクスウェルによって生み出されました。
彼も電磁気学の基礎を作り上げた功績が有名で、ラプラス同様に科学における重要人物です。
そんなマクスウェルは1867年頃、考えたのがマクスウェルの悪魔と呼ばれる存在です。
マクスウェルの悪魔は熱力学に関する問題です。
熱力学と言われてもあまりイメージが沸かない人もいるかも知れませんが、ここでは例えば熱いコーヒーを入れても時間が経つとぬるくなってしまう理由を説明するのが熱力学だと考えてもらえばいいでしょう。
温度というのは基本的にエネルギーと関連します。高い温度は高いネルギーを持った粒子の集まりで、低い温度はエネルギーの低い粒子の集まりです。
熱いコーヒーがぬるくなってしまうのは、熱い粒子と空気中の冷たい粒子と混ざってしまうことが原因です。こうしてぬるくなったコーヒーはエネルギーとしては価値のないものになってしまいます。
私たちが再び熱々のコーヒーを飲む場合には、再度電気や火を使ってエネルギーを与え、コーヒーを温め直さなければなりません。
しかし、マクスウェルの悪魔は、そんな電気や火を使わずに、コーヒーを温められるというのです。
この悪魔は次のような内容の思考実験で説明されています。
均一な温度の気体で満たされた容器を用意する。 このとき温度は均一でも個々の分子の速度は決して均一ではないことに注意する。
この容器を小さな穴の空いた仕切りで2つの部分 A, B に分離し、個々の分子を見ることのできる「存在」がいて、この穴を開け閉めできるとする。
この存在は、素早い分子のみを A から B へ、遅い分子のみを B から A へ通り抜けさせるように、この穴を開閉するのだとする。
この過程を繰り返すことにより、この存在は力学的意味で仕事をする(外部からエネルギーを加える)ことなしに、 A の温度を下げ、 B の温度を上げることができる。 これは熱力学第二法則と矛盾する。
主張した内容を先程のコーヒーの例で簡単にまとめると、「コーヒーの分子運動を仕事なしに意図的に操作できるような悪魔がいれば、温め直すことなくコーヒーの熱い部分と冷たい部分を選り分けることができるはずだ。しかし、そんなことがあったらおかしいでしょ?」、と言っています。
そしてこの文章における「存在」こそが、マクスウェルの悪魔です。
マクスウェルがこの悪魔を生み出した背景には統計力学を使った熱力学の説明に対して疑問があったためです。
統計力学は分子に関する熱力学の基盤として考えられていましたが、ここでは個々の分子の厳密な力学を無視して分子を集団として捉えてその振る舞いを統計的に扱っています。
そこでマクスウェルの悪魔が存在する問題に対して統計力学は適用できないということを指摘したかったのです。
マクスウェルが指摘したかった点はただそれだけですが、その産物としてのこの悪魔もまた、100年以上研究者を苦しめることになります。
マクスウェルの悪魔の存在を認めればエネルギーを必要とせずに仕事をすることが可能になるため、「永久機関」が実現できてしまうからです。
そんなわけがない、はずです。
永久機関が作れる能力はこれもまた、世界のパワーバランスを崩壊させかねません。
この悪魔を倒すためには悪魔が行っている「操作」は物理的に何を意味しているかを考える必要がありました。
ポイントは情報を得て、そして忘れることの物理的な意味です。
先程のマクスウェルの悪魔をもう少し簡単にした思考実験を考えてみましょう。
今回は1分子だけが箱の中にあります。
まずその箱の真ん中に仕切りを置きます。
このとき分子がない側は真空であり、分子がある側は圧力を持ちます。
悪魔は仕切りを置いた際に、分子が左右のどちらにあるかを知ることができ、その情報を記憶します。
悪魔はその後温度を一定にしたまま、仕切りを動かして部屋の中を全て同じ状態、つまり仕切りを入れる前に戻すことができます。
このとき仕切りを動かした分の仕事を取り出せたことになります。
しかし内部エネルギーは温度に依存するため、温度一定で仕切りを動かした際には箱の中のエネルギーは変化していません。
そして悪魔はどちらに粒子があったかを「忘れる」という操作を行います。
悪魔は元々分子の位置を知らなかったので、完全に最初の状態に戻すにはこの「忘れる」操作が必要になります。
こうしてようやく悪魔は観測を行う前と同じ状態に戻ります。
この1サイクルのどこにおいてもエネルギーを消費しないのであれば、何もないところから仕事をしたことになり、確かに永久機関を作ることができます。
初めは悪魔が分子の様子を観測する際にエネルギー消費が行われていると考えられていました。
ところが実際には悪魔が箱の中の状態を「忘れる」ときにエネルギー消費が行われていることが分かりました。
悪魔が左右のどちらに粒子があるかを記憶したとき、悪魔の記憶と箱の中の状態は結びついています。
その結びつきを消す操作をするときにエネルギーは消費されていたのです。
このようなことがなぜ起こるかはエントロピー増大則で説明することができます。
これは簡単に言えば「物事は自然のままに放置すると無秩序な方向に向かい自発的に元に戻ることはない」という法則です。
よく用いられる部屋の散らかり具合の話がイメージの手助けになるかもしれません。
あなたが生活をしていると部屋の中は段々とゴミで溢れ、色々な物で散らかっていきます。
そして散らかった部屋が勝手に綺麗になることはありません。
片付けという仕事をしなければ、部屋が元の状態に戻ることはないのです。
これを悪魔にも適用して考えることができます。
つまり、何かを記憶し箱の中と相関している状態から、何も記憶しておらず箱との相関もない状態に自発的に戻ることはなく、元に戻すためには何らかの仕事が必要であるということになります。
これは元々考えていた熱力学の問題を超えて、情報学との接点を見出す議論でもありました。
科学者たちはこの悪魔と格闘する中で現在の情報科学につながる重要な発見を得たのです。
そしてこの思考実験において、記憶を行なうことのできる存在ならば、記憶を消すまでの間だけはマクスウェルの悪魔を出現させられる可能性が示唆されています。
実際に2017年には日本で「悪魔の召喚」が行われています。
NTT物性科学基礎研究所はトランジスタ内の電子1個の動きを観測し、その結果に基づいてトランジスタを操作する技術を開発し、それを用いてエネルギーを生成させることに成功しました。
この研究によって、電子デバイスのエネルギー変換効率を向上させるために悪魔を利用できる見込みが立ったのです。
こうして現在マクスウェルの悪魔は条件付きではありますが存在することになっています。
ただし危惧されていたように世界のパワーバランスを壊しうる存在にはならなさそうです。
今回は特に凄い能力を持つのではないかと恐れられた物理学の悪魔2体を紹介しました。
いずれも現在では議論が落ち着いていますが油断はできません。
世界にはまだ未解決の悪魔のような問題が多くありますし、何より思考実験は装置や場所がなくても頭の中で誰でも行えてしまうのです。
次に恐ろしい悪魔を生み出し、そして科学を前進させるきっかけを作るのはあなたかもしれません。
ライター
ナゾロジー編集部
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。