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科挙の試験課程は時代によって大きく異なりますが、時代が下るごとに受験生が増加したこともあって複雑化していきましたが、基本的に次のような順序で進んでいきました。
試験の種類と段階:
このように中国最後の王朝の清の場合、科挙の第一歩は国立学校の入試である童試から始まります。
科挙を受験するためには国立学校の学生でなければならず、それゆえまずは国立学校に入学する必要がありました。
童試は三年に一度行われ、受験生は住んでいる県(現在の日本の市町村に当たる)が主催する県試、住んでいる府(現在の日本の都道府県に当たる)が主催する府試、中央が主催する院試の三つで構成されました。
この童試に合格したものは晴れて国立学校の学生となり、科挙を受ける資格を手に入れたのです。
しかし国立学校では三年に一度歳試という定期試験があり、この試験の成績があまりにも悪いと国立学校を退学になりました。
また国立学校とはいうものの、学校では学生に対する教育はまともに行われていません。
そのため建前上は「学校の入試」である童試は、実質的には「科挙の受験資格である学生という身分を手に入れるための試験」として扱われていたのです。
その後受験生たちは科挙の予備試験である科試を受験し、合格者はいよいよ科挙の本試験である郷試を受験しました。
郷試は非常に難易度が高く、合格するためには厳しい勉強と精神的な準備が求められました。
また郷試も先述した童試と同じく三年に一度しか行われておらず、不合格になった場合は三年間浪人することとなります。
さらに、採点の前に解答用紙の受験生の名前の部分を糊付けし、さらに筆跡から受験生が特定されるのを防ぐために筆記係が全答案を一字一句模写していました。そのため採点者は受験番号だけが書かれた答案の写しを見ながら採点を行っており、採点者に賄賂を渡して不正を行うことは不可能に等しかったのです。
郷試の受験会場である貢院の内部は、厳粛な雰囲気に包まれており、受験生たちは数日間部屋から出ることも許されず、厳しい環境の中で筆記試験に臨んでいました。
試験は徹夜で行われ、精神に異常をきたしたり急病になったりする受験生も多く、中には受験中に命を落とすものもいたのです。
この郷試に晴れて合格した者は挙人と呼ばれるようになり、次の試験である会試を受験する資格が手に入りました。
また挙人には地方の行政官になる資格も与えられており、受験生の中にははじめから官僚になることを諦めて、郷試合格後すぐに地方行政官になるものもいました。
その次に行われた会試は、首都で行われており、こちらも郷試と負けず劣らずの難易度を誇っていました。
そして会試の合格者は、最後の試験である殿試を受けることができました。
この殿試は皇帝が直々に行う面接であり、この試験の結果によって官僚としての出世コースに乗れるかどうかが決まったのです。
皇帝が最終面接官と言われるとかなり恐ろしい感じがしますが、ただ殿試まで来た場合は、よほどのことがない限り不合格にはならず、たとえ試験の出来がそこまでよくなかったとしても官僚自体にはなれたといいます。
また科挙には特に受験年齢の制限などは無かったことから、中には70歳を過ぎてから合格するものもいました。
しかし官僚の定年は70歳であったことから、70歳を過ぎて殿試に合格した場合は官職は与えられなかったのです。
しかし当時の中国では「科挙合格者」というだけでかなりの名誉があったことから、70歳を過ぎても受験する価値はありました。
なお合格者の平均年齢は30代であり、合格者は30~40年近くの間官僚として働いていたのです。
このように科挙の受験プロセスは、知識人階級の育成や官僚制度の維持に重要な役割を果たしており、古代中国の文化・社会において欠かせない存在であったのです。
それでは科挙の試験科目はどのようなものであったのでしょうか。
郷試・会試・殿試で難易度やボリュームは異なっていたものの、基本的には四書五経と詩題、策題という政治論文が課されていました。
四書五経は儒教の経書の中で特に重要とされる九つの文献のことであり、四書は論語、大学、中庸、孟子、五経は易経、書経、詩経、礼記、春秋です。
当時はこれらをマスターすることが、教養人への第一歩と考えられていました。
なお当時は四書を学んでから五経を学ぶことが一般的になっていたこともあり、科挙においても四書の方が基礎科目として重視されていました。
受験生はこの合計57万文字とも言われている四書五経を全て暗記した上で、そこに書かれていることをもとに小論文を書かなければなりませんでした。
詩題はその名の通り詩の詠むというものであり、受験生は詩の分野における知識と技術のうまさを求められました。
この詩題はオリジナリティよりも技巧がかなり求められており、後に中国を代表する詩人となる欧陽脩(おうようしゅう)も一度ミスで不合格になっています。
詩題も先述した四書五経と並び、身につけなければならない教養として扱われていました。
そのようなこともあって、科挙の合格者は中国における理想的な教養人としても扱われていたのです。
なお官僚の登用試験という扱いではあるものの、官僚になってから実務で使うであろう法律に関する科目はありませんでした。
この科挙は中国において長い間続けられていたこともあり、様々な影響を中国社会に与えました。
特に詩の分野では当時の知識人たちが科挙の価値観を内面化していたこともあり、どんどん難解になっていったのです。
実際に北宋(960~1127)の時点でも詩人たちの詠む詩はかなり複雑なものになっており、同時代の人物でさえ注釈書がなければ詩の内容をまともに理解できませんでした。
また知識人は古典の詩をほとんど覚えていたということもあり、詩を詠む際に古典の詩の句をそのまま引用するということが多々ありました。
中には一つの詩の全てが古典の詩の句の引用ということもあり、古典の継ぎはぎの詩というのは決して珍しくなかったのです。
また知識人たちは自分の感情さえも古典の詩の引用や難解なテクニックを使ってしか表現できず、このようなこともあって中国の詩はどんどん現実の言語から乖離していき、近体詩というスタイルが中国の正統な詩形となりました。
「たかが試験制度」と言いますが、試験制度によってエリートの価値観が固定化され、文化にさえ大きな影響をおよぼしてしまうことを考えると、試験制度が後世に与える影響は計り知れないといえます。
参考文献
学習院大学学術成果リポジトリ (nii.ac.jp)
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/records/2566
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。