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それでは遊郭は日本と中国でどのように発展していったのでしょうか?
江戸時代を代表する遊郭の吉原が誕生したのは、1605年です。
それ以前の江戸の町にも遊女屋はあり、市中に遊女屋は点在していました。
というのも江戸は1590年に家康が関東支配の本拠地に定めて以降、家康の指示によって急速に開発が進められていった都市です。
江戸時代初期の時点ではまだ開発が終わっておらず、それゆえ関東中から開発に従事する人を集めていました。
また関ヶ原の戦いによって没落した大名も多く、そうした大名に仕えていた武士たちの多くは仕事を失い浪人になりました。
こういった浪人たちの中には仕事を求めて江戸に向かうものも少なくなく、そのようなこともあって江戸の町は血気溢れる男性が多く集まっていたのです。
そのようなこともあって遊女屋に対する需要は大きく、それゆえ遊女屋は自然に増えていきました。
しかしこれに対して面白くないのが江戸幕府です。
江戸幕府は都市開発の一環として町人の居住地に立ち退きを強いることがありましたが、遊女屋は風紀を乱す存在としてたびたび移転を求められるようになり、経営に支障がでるようになりました。
そのあまりの多さに頭を悩ませた一部の遊女屋が、遊郭を作る陳情を行いました。
遊郭を作ることによって江戸市中に点在していた遊女屋を一つに集め、これ以上の幕府による理不尽な移転が起こらないようにしたのです。
最初の遊廓設置の陳情は拒絶されたものの、1612年に再び庄司甚右衛門(しょうじ じんえもん:江戸時代前期の町人。吉原遊郭の創設者)らが幕府に陳情し、1617年にようやく遊廓の許可を得たのです。
遊郭の設置に消極的だった幕府が設置の許可を出したのは、遊女屋を一か所にまとめることによって風紀の取り締まりがしやくすなる点や遊郭を幕府公認にすることでそこから上納金を手に入れることができる点が理由であると考えられています。
しかし吉原は1657年に起こった火災で焼失し、浅草へ移転することとなります。そして1657年には移転先で営業を再開し、幕末まで繁栄することとなりました。
その後も吉原は細々と営業を続けていたものの、1958年に売春防止法によって吉原遊郭は歴史的な役割を終えることとなったのです。
一方、中国・明の創始者の朱元璋(しゅげんしょう)は南京に公的な遊郭「富楽院」を設けました。この富楽院は金持ち向けであったものの、他にも庶民向けに16箇所の遊廓を建設し、遊郭文化の発展に務めたのです。
遊郭文化自体は明の末期にはすでに衰退の方向に進んでいたものの、秦淮(しんわい:南京市内の秦淮川両岸)の遊廓は明末に最盛期を迎えました。
文人たちが遊女を囲って舟遊びをする光景が特徴的であり、また秦淮八艶と呼ばれる高級遊女たちが文人たちの詩文の会に参加することもありました。
この当時の秦淮は遊郭だけでなく、文人たちの文芸サロンとしても扱われていたのです。
また日本よりも早い時期から遊郭が発展したこともあり、先述した日本の遊郭のモデルになったのではないかともいわれています。
しかし、明朝から清朝に政権が交代する際の戦乱により秦淮の遊郭も焼失し、中国の遊郭文化も終わりを告げました。
このように聞くと日中双方で遊郭は全く違う歴史を辿って行ったように見えますが、双方ともに共通点も多くあります。
吉原の最高級遊女である太夫は、住むところを豪華に装飾し、一流の高級品で身を飾っていました。
太夫は金持ちや武士など地位の高い客を相手にし、特に吉原の太夫は京や大坂の太夫と比べても華やかな装いでありました。
また太夫は容姿が優れているだけではなく教養も豊かであり、舞、管弦、茶道、和歌、俳諧などさまざまな芸術や学問に通じ、『八代集』や『源氏物語』などの文学作品も読むことができたのです。
太夫の客は地位の高い人々であり、彼らをもてなすことになる太夫にも高い教養が求められていました。
というのも遊郭にやっている身分が高い男性は、太夫に対して性的なサービスだけでなく、「対等な会話の相手」としての役割を求めることも多く、それゆえ太夫には彼らの話を合わせる必要があったのです。
現代でも銀座などの高級クラブのホステスには高い教養が求められると言われていますが、それに近いですね。
彼女たちは幼少時に遠い地方の貧乏な農村から将来の太夫としての適性を見極める女衒(ぜげん)によって買われ、芸術や学問を身につけられました。
彼女たちの言葉遣いは「ありんす言葉」と呼ばれ、独特な廓言葉が用いられたのです。
というのも当時の日本は現在以上に各地方間の交流がなかったということもあり、日本全国から女衒が集めた遊女たちは各々の出身の方言で話した場合、同じ日本人だったとしても聞き取ることができないということが多々ありました。
その為遊郭では廓言葉を使うことにより、客とコミュニケーションが取れるようにしたのです。
また当時の男性は遊女に対して出来れば高い身分の女性であってほしいと考えていたこともあり、高貴に聞こえるような廓言葉はそういった男性にとって居心地のいいものでした。
一方秦淮の遊郭も太夫のような高級遊女はおり、彼女らは裁縫や管弦など多岐にわたる芸術や知識に堪能でした。
客は主に文人や地位の高い人々であったり、彼女たちは文人と比べぬほどの豪華な書斎を持ち、素晴らしい詩文や絵画を残しました。
また彼女たちは部屋の装飾や香りにも細心の注意を払い、客を俗世から離れた世界へと導いたのです。
美しさだけでなく、性格や言葉遣いも評価され、衣装も上品なものを身に着けていました。
高級遊女との交際は社会的な流行となり、文人たちは彼女たちとの交流を誇りにしていたのです。
このように日中両国の遊女たちは、一流の人物には高い教養が求められていた点が共通してきます。
また高級遊女たちは客の意のままにはならない意気を示したり、中には柳如是(ワン・チエン)のように華やかさの中にも強さを隠し持っている人物さえいました。
柳は当時の名士であった銭謙益(チン・ハン)の愛人であり、清軍が攻めてきたとき節義を守るために銭に自殺をするように求めました。
銭はこれを断ったため、柳は池に身を投げて入水自殺をして、銭に先立って死のうとしたのです。
結果的に柳の入水自殺は失敗に終わり、銭は明朝滅亡後に清朝に使えるなど柳の思惑とは正反対に進みました。
しかしこのような気骨のある遊女が生まれたことは、高級遊女の文人化と大いに関係があるでしょう。
売春婦は世界最古の職業であるといわれていますが、あまり歴史の表舞台に上がることはありません。
しかし日中両国の高級遊女たちは、しばしば歴史の表舞台に上がることもありました。
その理由については未だにはっきりとしたことは分かっていませんが、個人的には日中両国の遊郭の利用者たちが高級遊女に性的サービスだけではなく、話し相手や芸術の交流相手としての役割を求めたからなのではないかと考えています。
それらのニーズに高級遊女たちが応えたことにより、後世に名を残す高級遊女が生まれたのではないのでしょうか。
参考文献
お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション “TeaPot” (ocha.ac.jp)
https://teapot.lib.ocha.ac.jp/records/6647
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。