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弥生時代の日本は航海技術が未熟だったということもあり、海を渡って中国王朝に挨拶に行くのも命がけでした。
それ故邪馬台国の人々は、持衰という生贄に近い存在の役職をもうけて、航海成功の祈願をしたのです。
下記の通り、魏志倭人伝にも持衰について取り上げられています。
其行來渡海詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹
(倭国の人間が海を渡って中国王朝に挨拶に行くときは、使者の中の一人を髪の毛を整えず、シラミがわいても取らず、服は汚れて垢まみれになっても着替えず、肉は食べず、女性を近づけず、まるで喪に服しているようにする。この人のことを持衰と名付けている。もし航海にトラブルがなければ、持衰が奴隷であれば解放し、また恩賞として褒美を与える。しかし病気の発生などのトラブルが航海で起こった場合は、持衰が責任を果たしていないとして殺す。)
このように持衰は古代日本の航海において、その安全を祈願するための欠かせない存在であり、同行する倭国の人々から畏怖尊敬されていました。
しかし持衰をどのような立場の人物が務めたかについては諸説分かれており、明確ではありません。
具体的な争点としては持衰が「奴隷」だったか「奴隷ではなかった」かという点です。
魏志倭人伝には持衰が奴隷だった場合という記述があるものの、「持衰は畏怖尊敬の対象だったため、奴隷を使ったと考えるのは無理がある」と主張されているのです。
しかし現在では、「奴隷」だったという説が濃厚です。
というのも古代の呪術師は「占いの力がある」や「超常現象を起こすことができる」などといった特殊な才能を持っているという理由で尊敬されてきました。
それに対して持衰は「髪の毛を整えず、シラミがわいても取らず、服は汚れて垢まみれになっても着替えず、肉は食べず、女性を近づけず」と単に耐えているだけで、呪術師や祈祷者のような特殊な才能を持つわけではなく、むしろ航海の安全に対する捧げ物や身代わりのような扱いです。
そのようなこともあって、持衰は奴隷が務めていたという説が有力となっています。
持衰と似たような文化は世界に存在しており、例えばパプアニューギニアのモツ族の集団交易旅行があります。
この集団交易旅行の参加者は伝統的な慣習に従って多くの厳しい食料や飲料に関する禁忌を守らなければなりません。
もちろん持衰と同じように女性との接近はご法度であり、妻帯者の参加者は交易旅行が終わるまでしばしの禁欲生活を強いられることになりました。
彼らは出航の儀式や航海の経由地なども厳しく制限されており、航海が終わるまで自由のない生活を送ります。
このモツ族の集団交易旅行の禁忌と持衰は非常に多くの共通点があり、そのことなどから「日本民族は海洋民族の末裔だ」であることの根拠とする学者もいます。
変わった儀式的文化の共通点から、日本民族のルーツを探るというのは興味深い試みかもしれません。
余談ですが邪馬台国には持衰のような特殊や生贄だけではなく、普通の生贄もいました。
具体的には卑弥呼が死去した際に100人以上の生贄が捧げられており、彼らは卑弥呼の墓に生きたまま埋められました。
このとき卑弥呼の墓に埋められた人々は奴婢であり、彼女の死後も世話をするために共に埋葬されたのです。
奴婢は当時の奴隷であり、奴(男の奴隷)と婢(女の奴隷)を合わせた名称です。
この行為は神への供物ともされ、古代の信仰文化において人命が捧げられることもありました。
このように弥生時代には権力者の死後に生贄を捧げる儀式がありましたが、古墳時代になるとなくなりました。
参考文献
慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA) –XooNIps (keio.ac.jp)
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-19411100-0065
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
海沼 賢: 以前はKAIN名義で記事投稿をしていましたが、現在はナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。