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佐々成政(さっさなりまさ)は尾張(現在の愛知県西部)出身の戦国武将です。
成政は織田信長に仕えており、織田家の急成長に伴って行われた外征によって数々の戦果を立てていきました。
そして1581年には富山城(現在の富山県富山市)に入城し、成政は越中国(現在の富山県)を支配するようになったのです。
しかし翌年、信長が本能寺の変で死去すると、成政の将来に暗雲が立ち込めます。
織田家の家中は後継者を巡って羽柴秀吉のグループと柴田勝家のグループに別れて争うようになり、成政は勝家のグループに所属して秀吉と争いました。
この争いは秀吉らのグループの勝利に終わり、成政は秀吉に臣従することとなりましたが、なおも秀吉が許せない成政は、今度は徳川家康と手を組んで秀吉と争います。
しかし頼みの綱の家康は1584年に秀吉と停戦し、成政は窮地に立たされました。
先述したように成政は秀吉と一度対立して臣従しており、この秀吉を裏切って家康のもとに走りました。
そのようなこともあって今更秀吉に再度臣従した場合厳しい制裁を受けることが想定されており、成政としては何が何でも家康に秀吉と戦ってもらわなければなりませんでした。
そしてその局面をひっくり返す起死回生の一策として、成政は家康のもとに直接出向いてもう一度立ち上がるように説得しようとしました。
しかし成政は日本海側の富山城にいるのに対し、家康は太平洋側の浜松城(現在の静岡県浜松市)にいます。
当時は現在のように道路事情が優れているわけではなく、それ故日本列島を縦断するのは至難の業でした。
また成政は美濃(現在の岐阜県南部)や尾張を支配していた秀吉や越後(現在の新潟県)を支配していた上杉氏とは対立関係にあり、使者ならともかく成政自身がこれらの国を通過するのはかなりの困難を極めたのです。
そのようなこともあって、成政は富山から直接家康の支配する信濃(現在の長野県)を目指すことになりました。
確かに地図上では越中と信濃は隣接しており、現在では立山黒部アルペンルートを使えば楽に富山から長野に行くことができます。
しかし戦国時代にこのような都合のいいものはなく、越中から信濃に行くためには厳しい山越えをしなければなりません。
1584年11月、覚悟を決めた成政は富山城を出発し、冬の北アルプスに入山しました。
成政はザラ峠、針ノ木峠の二つを超えて信濃に入り、そのまま家康の待つ浜松城へと向かいました。
このザラ峠は小石が多くて地盤が脆く、人間が通るとザラザラと音を立てながら崩れ落ちることからその名前が付いたと言われており、とても危険なエリアです。
また冬の北アルプスということもあってルート全般に雪が積もっており、それ故現在でも踏破する難易度は高いです。
なお必死の思いで浜松に着いた成政ですが、家康の説得は失敗に終わったのです。
そして成政は失意の中、行きと同じルートを辿って富山へと帰りました。
このように成政の北アルプス横断は浪漫に溢れており、「さらさら越え」として後世に伝えられています。
実際にこのルートはリスクがありながらも当時から行商人が頻繁に利用しており、また佐々家や徳川家の使者もこのルートを使っているのです。
このことから、当時の交通状況でも真冬にさらさら越えをすることは不可能ではなかったことが窺えます。
しかしできるからといって実際にやったとは必ずしも言えません。
というのも先述の通り成政は「浜松の家康に会って説得したい」という理由でさらさら越えに挑んでおり、登山家のように「そこに山があるから」という理由ではありません。
当然成政は自分が考える中で一番リスクの低いルートを使って浜松へ向かったと考えるのが妥当であり、それゆえ「成政はさらさら越えを行っていない」と主張する歴史学者もいるのです。
彼らの考えるルートは大きく分けて二つに分けることができ、一つは「飛騨(現在の岐阜県北部)を経由して信濃に入った(下図②)」というルートです。
当時の飛騨は成政の同盟者が支配しており、比較的安全に通行することができました。
また飛騨と信濃の境界も、北アルプスの一部ということもあって冬の峠越えは厳しいですが、集落が全くない中を進まなければならないさらさら越えよりはマシであり、先述した行商人もこちらのルートを使う場合も多く見られました。
もう一つは「越後(現在の新潟県)を経由して信濃(現在の長野県)に入った(上図③)」のルートです。
このルートは当時から主要街道として扱われており、現在でも高速道路や新幹線が通っているのはこのルートです。
その為地理的に考えればこのルートが最適解ですが、先述したように成政は当時越後を治めていた上杉氏とは対立しています。
そのこともあって成政が越後を通過することは困難に見えますが、この説では上杉氏家臣の中に内通者がおり、その力を借りて何とか越後国内を通過したと主張しています。
実現した可能性が高いという意味では②③のルートは確かに説得力があります。ただ多くの歴史的史料で「成政はザラ峠を越えて家康のもとへ向かった」と書かれており、成政はさらさら越えを行ったという説が証拠的には一番有力です。
しかし残っているのはやや正確性に問題を有する史料のみでしっかりとした史料がなく、また飛騨や越後を成政が通ることができたかもしれないという状況証拠が揃っていることもあり、成政がどのルートを使って家康のもとに行ったのかについては未だに定説が存在しません。
たとえ成政が飛騨ルートや越後ルートを使ったとしても、秀吉との戦争中に領土を空けるリスクを冒して家康のもとに行ったことに変わりありませんので、成政が勇敢な武将であることは間違いないでしょう。
参考文献
富山県/研究紀要14号(2007) (pref.toyama.jp)
https://www.pref.toyama.jp/1739/miryokukankou/bunka/bunkazai/home/e_memoirs/14_2007.html
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。