今日の日本では都市部を中心に中学受験が盛んです。

しかし戦前の日本でも、中学受験が盛んに行われていました。

果たして戦前の中学受験はどのようなものであったのでしょうか?

本記事では現在と戦前の教育制度の違いについて触れつつ、戦前の中学受験について紹介していきます。

なおこの研究は学校教育学研究論集5号,p. 1-11に詳細が書かれています。

目次

  • 現在とは全く違う意味を持っていた戦前の中学受験
  • 今と変わらない教育ママの奮闘
  • 苦言を呈す人も

現在とは全く違う意味を持っていた戦前の中学受験

大正8年(1919年)の学校系統図、小学校卒業後中学校に行くか高等小学校に行くかで将来は大きく異なった / credit:文部科学省

そもそも戦前の教育制度はどのようなものであったのでしょうか?

戦前の義務教育は6年間であり、小学校を卒業したら義務教育は終了しました

そして小学校卒業後の進路については、そのまま働きにでる人も一定数いましたが、進学に関しては現代と異なり大きく分けて2つの選択肢がありました。

それが高等小学校への進学中学校への進学です。

高等小学校とは小学校卒業後そのまま進学することができる2年制の学校です。

一方の中学校は現代の中学校とは異なり、入学には受験が必要な5年制の学校で、現在の中高一貫の進学校に近い存在でした。

高等小学校は受験が必要なく、小学校の延長線上の初等教育という位置づけで、中学校よりもレベルの低い授業が行われていました。例えば中学校では数学を学んでいる時に高等小学校では算数を学んでいました。

さらに高等小学校に進んだ場合、制度的に中学校に編入学することが出来なかったため、現在のように「中学受験の失敗を高校受験で取り戻す」ことは不可能だったのです。

そのため高等小学校へ進んだ場合、その後の進学先は師範学校(戦前の教員養成機関)や実業学校(現在の職業高校)など例があったものの、正当な学歴を積むことは出来ませんでした。

それ故中学受験は戦前のエリートの卵にとってはまさに最初の難関でした。ここで躓くと、先の人生がある程度決まってしまうという認識だったのです。

しかし現在の中学受験と異なって戦前の中学受験では中学浪人は決して珍しいものではありませんでした。

戦前にも現在の予備校に近いものがなかったわけではないですが、多くの中学浪人生は一旦高等小学校に進学して、次の受験の機会を待っていました。

このような事情もあって高等小学校には「小学校の延長」「中学受験予備校」という2つの面があったのです。

今と変わらない教育ママの奮闘

千代田区立麹町小学校、戦前はここに通うことが名門中学校に進学するのに有利だった。 / credit:wikipedia

それでは戦前はどのように中学受験の準備をしていたのでしょうか?

当時は塾などの教育産業はあまり発達していなかったので、親ができる一番の受験対策は子どもを良い小学校に入学させることでした。

現在は中学受験の前に国私立の小学校を受験する人もそれなりにいますが、戦前は国私立の名門校は少なく、それゆえ「お受験」はあまり盛んではなかったのです。

代わって行われたのは、名門公立小学校への学区をまたいだ越境通学です。

特に番町尋常小学校(現代の千代田区立番町小学校)、麹町尋常小学校(現在の千代田区立麹町小学校)、東京市立誠之小学校(現在の文京区立誠之小学校)の3つは名門校として知られ、越境通学をして通う人も多くいました。

そのうちの一つである誠之小学校は「父母の強い進学への要求」を受け、中学校進学のための課外授業を導入しており、入試準備教育を行っていたとされています。

さらに、母親が学校を訪れ、「廊下すずめ」と呼ばれる学校の様子を窺い歩くことが日常的に行われていました。

教師たちも「父母の期待」に積極的に応え、運動会や校外学習、学芸会などの教科外活動を縮小するなどして中等学校進学に対応していたとされています。

もちろんこのような事は禁止されており、中等学校入学準備教育に関しては、度重なる禁止令が出されていました。

しかし行政当局は事実上暗黙の容認に近い対応を見せており、これらがなくなることはなかったのです。

また学校での受験準備教育だけでなく、家庭でも多くの時間を受験準備に割いており、親子一丸となって受験勉強に臨んでいました。

苦言を呈す人も

教育心理学者の青木誠四郎、彼自身は松本中学校(現在の長野県松本深志高等学校)に入学するも中退し、長野師範学校(現在の信州大学教育学部)→東京帝国大学(現在の東京大学)文学部と当時としては傍流の進学をしている。 / credit:wikipedia

そのような状況に教育心理学者の青木誠四郎は懸念を抱いており、「中等学校入学者選抜の方法についての私見」と題した論文を発表しました。

論文では、「学歴によって就職や出世が決まる風潮と親の教育熱によって学歴競争が激化している」と指摘しています。

また、青木は論文の中で入学試験への取り組み方について、「入試は死ぬほど努力すべき」といった風潮があり、健康に対する懸念が生じていると報告しているのです。

さらには青木は中等学校受験準備の過熱化に対する解決策として、中等学校の収容力を高めることを提案していました。

実際に青木の主張したように戦前を通して中学校の新設は続いており、中学校進学者は増加していました。

同時に、学歴偏重志向や就職難といった社会的背景が親たちの強い進学志向につながっていたと指摘し、これらの社会問題にも焦点を当てていたのです。

当時の上流層の間では無理やり子どもを進学させることがしばしば起こっており、青木は「ある公務員の子どもは非常に成績が悪かったものの、無理をして何とか中学校に入れたが、学校内で落ちこぼれたので、グレて盗みを働くようになった」という例を紹介しています。

一方受験を回避して人生を成功させた例として「ある陸軍軍人の三男は成績が悪かったので、小学校を卒業後に商家へ奉公に出したが、三男は立派に成長し、大学を卒業した長男や次男よりもいい生活をしている」という話しを紹介しており、親が子供の能力や適性を考慮して進学を選ぶことが大切であると主張しています。

学歴がその後の人生に影響するというのは戦前であっても変わらない事実であり、それ故多くの親は子どもの人生の選択肢を増やすために受験に必死になっているケースがあったようです。

これは現代とまったく変わらない状況ですが、歴史的な事実として振り返ると、当時の教育熱の高まりや学歴偏重志向に対する人々の懸念は現代の親の姿勢に対する警告として受け取る事ができます。

現在でも子どもの受験に力を注いでいる家庭は多く、中には青木が指摘したように受験勉強に必死になり過ぎて健康を害する子どもや、学業不振に悩む子どもがいます。

大切なのはいつの時代も子どものことを良く見て、その子の適正を見抜いてあげることでしょう。受験はその選択肢の1つに過ぎないのです。

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参考文献

東京学芸大学リポジトリ (nii.ac.jp)
https://u-gakugei.repo.nii.ac.jp/records/30477

ライター

華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。

編集者

海沼 賢: 以前はKAIN名義で記事投稿をしていましたが、現在はナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。

情報提供元: ナゾロジー
記事名:「 子どもの受験に親は必死!意外と今と変わらなかった戦前のお受験事情