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海の中には、地上の生物とはまるで異なる、驚異的な進化を遂げた生物がひっそりと息づいています。
しかしゴカイやミミズなどの感情動物に属するミドリシリスの繁殖形態は特に異様です。
日本近海に生息するミドリシリスたちは交尾の時期になって体の後方で精巣や卵巣が発達してくると、その部分の前方部分に独自の目や触覚、脳が形成され、本体から分離して新たな1個体(ストロン)となって泳ぎ去っていきます。
そして同じように本体から分離した異性と出会うと交尾(産卵と射精)を行います。
このストロンには本体のような栄養摂取を目的とした口や消化管は未発達であり、文字通り交尾をするためだけに存在していると言えます。
これまで多くの多細胞動物の研究が行われてきましたが、交尾のためだけに新たな頭部を生成させる生物は知られていません。
そこで今回、東京大学の研究者たちは実験室内でのミドリシリスの飼育を行う環境を整備し、ミドリシリスの秘密に迫ることにしました。
調査にあたってはまず、ミドリシリスの尾部に頭部ができて尾部が分離するまでの一連の過程の視覚的な観察が行われました。
するとストロン分離には下の図のように6つのステージにわかれており、生殖腺の発達にともない頭部の形成が始まり、目や感覚器官だけでなく神経組織の集中がみられるようになり、尾部が分離する頃になると頭部に新たな「脳」が形成されました。
また注目すべきことに、分離した尾部には消化管の痕跡のようなものはみられましたが、頭部には摂食を行うための機能的な口も咽頭も存在していませんでした。
本体から分離された尾部は、よく発達した筋肉系を備えており、感覚器官を使って交尾相手となる「異性の尾部」のフェロモンを感知することが可能です。
尾部の脳の基本的な構造は本体の脳と共通となっていましたが脳体積は本体よりも小さくなっていました。
また本体のような脳からつきでた触覚器官をはじめとしたいくつかのセンサーも尾部には存在しませんでした。
研究者たちは尾部の脳が本体よりも小さいのは、感知すべき情報が少なく、目的が交尾に限定されているからだと述べています。
実際、交尾を終えた尾部たちは、その後短い生涯を終えることになります。(ミドリシリスの交尾はメスの産んだ卵にオスが精子をかけることで受精します)
以上が、主に顕微鏡などを使った視覚的な観察によって得られた結果です。
この不思議なミドリシリスの性質について「交尾専門の新たな脳をもった個体を作るより、自分で交尾しに行けばいいだろう」と思う人もいるでしょう。
確かに、地球上に存在するほとんどの動物は本体が交尾を行っています。
しかし、交尾のために危険な外界を移動することは自身の生存においてリスクにも繋がります。
ミドリシリスは交尾を専門の個体を生み出し、それに繁殖活動を任せることで、本体自身は安全な場所に隠れたまま生活を続けることが可能になるのです。
しかもその交尾用の尾部は何度でも再生可能と言うメリットもあります。
そう考えると、ミドリシリスの戦略もなかなかに優れていると言えるでしょう。
ただ視覚的な観察だけでは、どんな仕組みで尾部に頭部が形成されるかまではわかりません。
尾部はどんな仕組みで頭部を獲得しているのか?
謎を解明するために研究者たちは6つのステージのそれぞれの段階にいるミドリシリスをすり潰し、体の各所でどんな遺伝子が活性化しているかを調べました。
すると主にステージ4からステージ5にかけて頭部を作る場所の決定にかかわる遺伝子が、尾部の前端部分で大きく活性化していることが判明しました。
またさらなる分析により、頭部決定遺伝子が生殖腺の発達に連動する形で活性化していることが示されました。
つまりミドリシリスの尾部における新規の頭部形成は、生殖腺の発達とリンクしていたのです。
加えて今回は、生命の体の前後を決定する遺伝子についても調べられました。
※尾部が独自の意思を持つようにブルブルと動いている様子の動画はこちら(苦手な方は閲覧注意)
多くの多細胞生物は頭部と尾部を持っていますが、どこを頭部にしてどこを尾部にするかは、生命の設計図たる遺伝子によって制御されています。
(たとえば心臓が左にあるように内臓のどのパーツをどこに配置するかも、左右を決定する遺伝子によって制御されています)
前後を決めることは頭部の位置を決定するにあたり、極めて重要です。
特にHox遺伝子は無脊椎動物から脊椎動物に至る広範な動物の前後決定において重要な役割を担っており、体のさまざまな場所でHox遺伝子が異なる形で働くことで、動物の体が前から後ろに向けて規則正しく作られることが知られています。
そのため当初研究者たちはミドリシリスの尾部の前端、新たに頭部が作られる部分においても、体の前後を決めるHox遺伝子が調節を行っていると考えていました。
しかし意外なことに、ミドリシリスの体内では、Hox遺伝子はどこも一貫した発現を行っていることが判明します。
この結果は、尾部での頭部形成は体の前後軸を決定するHox遺伝子をはじめとする既存の仕組みとは独立した、異なるメカニズムで行われていることを示しています。
研究者たちは、ミドリシリス先祖はかつて生殖時期になると全体が遊泳形態に変化していたものの、高い再生能力を生かして、やがて本体は安全なまま尾部だけを遊泳させる形態に進化した可能性があると述べています。
(※なお余談ですが、芋虫やウジ虫をはじめとしたさまざまな種の幼虫は、実際は運動能力と栄養摂取能力を獲得した「卵」に過ぎないという説が提唱されています。これは卵の中に入れられる栄養が限られているため、卵そのものが活動して栄養を獲得するという考えです)
参考文献
環形動物ミドリシリスの特異な繁殖様式
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/10089/
元論文
Morphological, histological and gene-expression analyses on stolonization in the Japanese Green Syllid, Megasyllis nipponica (Annelida, Syllidae)
https://www.nature.com/articles/s41598-023-46358-8
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
海沼 賢: 以前はKAIN名義で記事投稿をしていましたが、現在はナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。