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アステカ社会の特筆すべき側面の一つとして挙げられるのは、人身御供の儀式です。
この儀式は世界中で見られることがありますが、アステカの場合は独自の要素が加わっており、その特異性が際立っていました。
生贄を捧げる儀式は、捧げる対象の神によって異なります。
例えばシペ・トテック(アステカの穀物神)では生贄の生皮を剥ぎ取り、それを神官たちが身にまとって数週間にわたって踊り狂う儀式が行われました。
一方テスカトリポカ(アステカの夜空の神)に捧げる生贄は、儀式を行う1年前に神官によってテスカトリポカに似た若い男性が選ばれます。
そして儀式の日に生贄は神のように崇められながら神殿の階段を上り、神官はその胸を切り裂き心臓を取り出します。
現代の視点から見ると、これらの儀式は非常に野蛮で残酷に思えますが、当時のアステカ社会では生贄にされることは名誉なこととされていました。
生贄には通常、戦争捕虜や高貴な出自を持つ者が選ばれ、神事の日まで丁重に扱われました。
例えばテスカトリポカに捧げる生贄は1年間宝石を身に着け、8人の従者と共に神のような生活を送ります。
また最期の1週間は歌い踊り、大食いをし、4人の若い女性と結婚しました。
また儀式によっては貴族や若者、さらには幼児が生贄にされることもあったのです。
アステカ社会の人身御供の神事は、その残酷さと独自性から、歴史の中でも特筆すべき出来事の一つとして記憶されています。
それではどうしてアステカでは生贄の儀式が盛んにおこなわれていたのでしょうか?
その理由といわれているのは、アステカの創造神話です。
アステカの創造神話によれば、神々は自己犠牲をして太陽と月を創りました。
テクシステカトルとナナワツィンという神々が火に飛び込み、太陽と月が誕生したのです。
しかし、太陽と月は動かないため、神々は自己犠牲で彼らを動かすことにしたのです。
この神話から、アステカの人々は神々への感謝の意味で人身供犠を行うべきだと考えました。
また太陽が動かなくなると地震や飢餓が訪れ、現世が終末を迎えると信じられていたため、太陽に栄養を与え続けるために人身供犠の実践を行いました。
アステカ文化における人身供犠の正当性は、宇宙の運行と太陽の持続的な動きを確保するためであるという考えに基づいていたのです。
またアステカ文化における人身供犠は、宗教的な理由だけでなく、現実的な目的も持っていました。
アステカ帝国は「花戦争」として知られる戦争のシステムを導入しました。
これは生贄に捧げるため捕虜を手に入れるためだけにはじめられた戦争で、周囲の都市との対立を組織的に行ったのです。
この戦争を行う表向きの目的は、「太陽神への生贄を確保し、第5番目の太陽の時代が滅びないようにする」という宗教的な目的でした。
しかし実際は、アステカの花戦争には、さまざまな実用的な戦略があり、貢物の確保、周辺都市へのプレッシャーなどの側面もあったといいます。
アステカに服属する都市は、自身の産物を貢物として送る義務があり、これは祭礼や都市の生活、戦費に利用されていました。
アステカは戦争を物資の再分配のための重要な「生産活動」としても利用していたのです。
また先述したようにアステカは捕虜を人身供犠に使い、敵に恐怖を植え付け支配を容易にしました。
例えば、未だに服従していない首長や同盟に敵対し敗れた者の親族は、テノチティトランでの人身供犠の招待を受けました。
断ればそれを口実に戦争が起きますので、彼らは自身の親族が生贄として捧げられる光景を目撃させられたのです。
アステカの生贄の儀式は宗教的な意味合いだけでなく、帝国の権勢を示威するという意味合いも持っていました。
こうしたアステカ帝国の生贄儀式を利用した支配体制は、周辺地域のヘイトを溜めることになり、後にスペイン人が侵略してきた際、現地人が進んでスペイン人の味方をするという状況を生むことになります。
強大な勢力を誇ったアステカ帝国が、長い航海を経てやってきたスペイン人にあっさり征服されてしまった背景には、こうしたアステカ帝国の支配体制もあったと考えられています。
参考文献
BUILD Site –アステカの人身供犠に関する一試論 (beppu-u.ac.jp) http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=ar01607