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人間には恐怖を感じるさまざまな状況が存在します。
死・痛み・孤立といった生命を危機にさらす恐怖だけでなく、流血・注射針・閉所といった限定的なものも「恐怖症」の名で多くが知られています。
なかでも高所恐怖症は数千年前の古代文献にもその存在が記録されてる、非常にメジャーな恐怖症となっています。
しかし意外なことに「脳がどんな仕組みで高所を感知し恐怖を発生させているのか」といった基本的なメカニズムは解明されておらず、有効な対処法もわかっていません。
しかし研究者たちのふとした気付きによって、高所恐怖症の謎に迫る研究がはじまりました。
研究のキッカケとなったのは、マウスたちがみせた「人間臭い」行動でした。
マウスを使った実験ではしばしば、マウスたちを高い場所に置いて怖がらせ、意図的なストレス状態にすることがあります。
ストレスに強いマウスは怖がっていても少しずつ探索をはじめますが、ストレスに弱いマウスは縮こまり動かなくなってしまいます。
マウス実験ではこのマウスの特性を使って、脳のストレスを処理する仕組みやストレス耐性を高める薬の開発を行っています。
しかしある日、研究者たちがマウスを観察していると、妙な部分があることに気付きました。
高所につれていかれたマウスの多くが、おっかなびっくり淵まで行って下を確認した直後、そくささと淵から遠ざかるような「人間臭い」行動を見せたのです。
同様の行動パターンは人間にもみられます。
高い所に連れていかれた人間たちにはしばしば、ギリギリまで身を乗り出して高さを確認するような行動を行い、その後決まって安全な場所へと退避していきます。
同じような行動パターンが存在するということは、マウスと人間が高い場所を検知し恐怖を感じる際、脳内で似たメカニズムが働いている可能性があります。
そこで今回、華東師範大学の研究者たちはマウスを使って高所恐怖症の発生メカニズムを調べることにしました。
調査ではまずマウスを高所につれていき、マウスたちの脳活動を調べました。
するとマウスの脳内で「脅威に対する防衛反応」を担当する中脳の水道周囲白質(PAG)の脳細胞が強く活性化していることが判明します。
そこで次に研究者たちは、この部分の脳細胞を破壊してみることにしました。
もしこの部分が高所にかんする恐怖反応の中枢ならば、破壊によってマウスたちは高所に恐怖を感じなくなるはずです。
さっそく研究者たちは特定領域の脳細胞だけを破壊するための化学物質を注入し、マウスたちの様子を観察しました。
すると驚くべきことに、マウスたちは高所を恐れることがなくなり、端を自由に探索し、端からぶら下がったり、場合によってはわざと落下するような「命知らず」な行動がみられるようになったのです。
この結果は中脳の水道周囲白質(PAG)が高所恐怖症の発生源であることを示しています。
またこの領域の外部との接続性をしらべたところ、視覚を司る脳領域(外側膝状核:LGN)から入力を受けていたことが判明します。
そこで研究者たちがこの入力元の脳細胞を破壊したところ、同様にマウスたちは「命知らず」になったのです。
つまり高所恐怖症の発生源(PAG)は視覚的な情報から高所を検知して、恐怖をうみだしていたのです。
また高所に置かれたマウスの脳では、視覚的脅威に対して防御反応を担う中脳の「上丘(SC)」と呼ばれる領域でも活性化が確認されていました。
そこで研究者たちは同じようにこの上丘部分の脳細胞を破壊して、マウスの行動を観察してみました。
すると意外なことに、上丘の脳細胞を破壊されたマウスは「命知らず」になるどころか、以前にも増して高所を恐がるようになったのです。
この結果は、マウス脳内には高所恐怖症の発生源(PAG)に加えて、発生した恐怖を抑制するシステム(上丘:SC)が存在することを示しています。
高所での恐怖を抑制する仕組みは、天敵から逃げる際に木などの高い場所に昇る助けになると考えられます。
つまり高所に置かれたマウスの脳内では恐怖の発生と恐怖を抑制するシステムが同時に働いて、命知らずになることも全く動けなくなるようなこともないよう、調整を行っていたのです。
研究者たちは同様の仕組みが人間の脳内にも存在する可能性が高く、解明が進めば高所恐怖症だけを和らげるような治療薬が開発できると述べています。
そうなれば、重度な高所恐怖症の人々も飛行機で旅したり観覧車で景色を楽しむことが可能になるでしょう。
恐怖症の原因となるメカニズムが、今回の様に順次明らかとなっていけば、最終的に未来の薬局には「高所恐怖症」「先たん恐怖症」「閉所恐怖症」「対人恐怖症」といった各種恐怖症を緩和する薬が並ぶようになるかもしれません。
元論文
A non-image-forming visual circuit mediates the innate fear of heights https://www.biorxiv.org/content/10.1101/2023.05.27.542556v1.full